箱舟が出る港  第三劇 二章 月世界の戦慄

寂しき影が遠ざかる。
行かないでよ!
叫んだつもりは、言葉にならず、赤子の泣き声だった。
さよならと振る手も見えず、影は躊躇せずに、二人を置いていった。
風も入らぬころ合い良き山林は、捨てた親の餞だったのだろうか?
寒暖なき山林。
なぜか月光が、太陽に見えた記憶がある。
山林には小さき池があった。
いや、池と呼ぶのは小さ過ぎる溜まりであるが、月がここに落ちていた。
立つ者が居た。
兄さん・・・。
菊村貢。
菊村愛はよちよちと貢にすり寄り、足元を握りしめていた。
2004年中秋。
兎が居ると教えられてから、何年がたった事だろう
・・・兄さん? 兄さんは今何処にいるの?
菊村愛は目薬を流すと網戸を開けた。
外はあの日と同じ満月だ。
蚊と蠅が入る。
この部屋に兄が入る事はもうないのだろうか?
ひとりぼっちになるの、もう頼れないの?
研究に疲れている、愛、・・・寂しさもある。
少しだけ人の群れの中に出たい。
遠くにオートバイの爆音が聞こえた。




2006年初夏。
「待てよこの野郎!」
毒島は【もうひとり】の樺沢辰巳を追った。
ヘビー級だが空手の達人は足も速い。
逃げる者のパーカーを左手に掴んだ。そのまま回転し、右の猿臂(えんぴ)を
顔面に軽く叩き込んだ。
叩き込んだ!?
強靭な肘がおかしな感触に見舞われる。
朽ちた木・・・幼き頃から大木を叩き拳を鍛えた毒島は即座に理解した。
鼻も折れてもいまい、ましてや血も・・・
白いせんべいのかけらのようなものが散らばっていた。
「顔を見せてみろや」
俯けに倒れた男の首筋を掴み、顔を振り向かせた。
「バア・・・?」
樺沢辰巳はおよそ人間が発生するどの声、人がマネ出来ない奇妙な声で言
った。

頭部は骸骨であった・・・
空洞の目の奥に、光だけが宿っていた。