箱舟が出る港  第三劇 二章 月世界の戦慄

「で、おめおめと帰って来たわけだ・・・?」
剣幕たるや怒涛の如く、その鶴のような喉からの非難を覚悟したが、
案に相違し、柔らかな表情と声であった。
「・・・その・・・常央教授陣は市島に心酔してまして・・・隙がなく
・・・はぁ・・・私の力不足でございます」
頭を垂れる井上輝義である。元文部官僚で、常央大学副学長だ。
「君は甥の死が、それほど悲しいものだったのかね?この私の指示を無視し
市島に反抗するからこうなった。私はくどい程言ったはずだ。どんな事が
あっても市島に服従せよ・・・とな。情報を引き出せと・・・謝罪の言葉も
無しか・・・くっくっく・・・見くびったか井上」
白袴姿の内閣官房長官一藁力。
カラ咳をひとつすると続けた。
「…菊村愛を殺した事を評価し、君を文部事務次官まで引き上げた。どうやら
その無能さが現れたようだな・・・所詮たかが筑波の宮司の子孫・・・役目は
終わったと思ってくれ給え、井上くん?」
皺だらけの艶なき老班だらけの冬の木の枝のような手。
その指がパチと鳴った時、命がない事を井上は熟知している。
何人も始末される様をこの目で見てきたのだ。
しかしこの時の井上の心は壊れていた。
死など怖くはない。というよりも何故自分が生きているのか不思議でならな
かった。
利根川を渡った時見た名も知れぬ巨大魚のカっと開いた目。
怒涛のように地球を襲う未曽有の惨事せも何故か冷ややかに対応する人類。
タクシーの運転手から命からが逃げ、夢ならば覚めよと雲は霞と、擁護者の
元へかけつけたが、冷たき対応がさらに生を捨てようとする。
生甲斐だった甥ももはやいない。生存しているなら懇願もしよう。正常でいられた
であろう。
「・・・世界が発狂してますな…一藁先生。あなた方、強欲なる老害のせいかも
しれませんな、これは」
予期せぬ子飼いの言葉。
一藁は指をバチと鳴らした。
やってくるがいい・・・
井上は刺し違える覚悟で、背後にあるドアを睨んだ。