国家の為に死ぬという事 二

ここで少し予科練について書いてみようと思う。


予科練とは正しくは海軍飛行予科練習生といい、昭和5年(1930)から
太平洋戦争終結の昭和20年まで存在した大日本帝国海軍の航空兵養成所。
そこの生徒の事である。
昭和14年に予科練教育の場が霞ヶ浦へ移った為、土浦町(現土浦市)と霞ヶ浦
は切り離せない関係となった。
予断であるが土浦市桜町付近は飲み屋の類が多く、
これは旧予科練生の一時の休息の場として栄えたと聞く。


予科練の制度は、海軍が航空戦力の重要性を認識して、
中堅の航空兵を養成するために始めたものであり、
最初は横須賀の海軍航空隊の中に設置されていたようである。
それが日華事変の勃発と戦争拡大の中で、航空兵力の大量な養成に迫られ、
昭和14年に霞ヶ浦へ移ってきた。
当時霞ヶ浦には海軍航空隊が水上班と陸上班に分かれて設置されており、
飛行機乗りのメッカになっていたのが、予科練教育の為に翌年15年、水上班の廃止。
こうして土浦海軍航空隊が設置されて、予科練教育を専門に行うこととなる。


予科練は、高等小学校卒業(14歳)の少年を採用して、三年間で飛行機乗りとしての
基礎的知識と一般教育を身につけさせる所であった。
ここを卒業した生徒は、次の段階である飛行練習生となって約一年と言われる
飛行機操縦の実地指導を受け、その後実践部隊として配属されて行く。
教育は犠牲的精神と敢闘精神を徹底的に叩上げていくという方針の下、
実に峻厳を極めるものであったようだ。
週一の休みはあったが【月月火水木金金】といわれる精神を持たせ【精神注入棒
と称する樫の棒で体を殴られる体罰も恒常的に行われ、
予科練は叩かれながら鍛えられていった。



※余談だが土浦はこのように海軍と密接な関係があり、
現在カレーで町おこしをしている。
ヨーカ堂には本場インド人の店、
また駅前にも同様な美味しい店が多数。
いつまでだったか忘れたが、
駅前につかさデパートというものがあり、
常磐線の到着に合わせて【月月火水木金金】をその屋上?
から流していたっけ。
母校の応援歌には若鷲の歌をもじったものもあった。

樫の木は痛い、当たり所が悪ければ死ぬw竹刀ならまだしも・・・
中国武道で使われるトンファー等は樫で出来ているのも頷ける硬さである。
それほど凄い鍛錬だったのだろう・・・※




今日はたった一人の娘の誕生日です
離れているけどおめでとう14歳
〜続く〜





自分でつくるうまい!海軍めし―簡単!早い!おいしい!

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海軍は陸軍より恵まれていたようです
簡単に作れて美味しいレシピが盛りたくさん
不精な運営人にも作れました