国家の為に死ぬという事 三

予科練出身者は真珠湾攻撃ミッドウェイ海戦、中国戦線の航空戦力として活躍した。
戦局の悪化とともに航空兵力が不足してくると、予科練教育は、
大量採用と短期育成が求められるようになり、入学資格が多様化されると同時に、
速成教育が行われることになった。
昭和19年からは、決定的に悪くなった戦局を打破するために、
特別攻撃隊が編成される。
予科練出身者はそこへ充当されていったのである。
戦闘機(ゼロ戦)に爆弾を積んで敵艦へ体当たりする神風特別攻撃隊はあまりにも有名である。
歳の頃20歳前後の若者が、
恐怖と苦痛を和らげるために、麻薬(モルヒネ)を使い突入したのである。


その他に人間魚雷回天
爆装モーターボート震洋、棒に爆弾を仕掛け海底に潜り、敵艦の
船底を突くという伏竜などの特攻兵器を使って、敵艦へ体当たりしていった。
こうして予科練出身者は、消耗されていったのである。
ちなみに安藤昇は伏竜隊に配属され、突撃の機会がないまま終戦を迎える。


水兵服に代わって、昭和17年には七つ釦の制服が作られた。
15歳そこそこの少年はこの服に身を固め、日曜日には土浦の町を歩く。
町では彼らが「国のために死んで来ます」という言葉を口にするたびに、
彼らの一途さと悲観的境遇に涙した人々が多かったという。

〜若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く〜

当時巷間で歌われた若鷲の歌は、
今や軍国主義の中で散っていった若者へのレクイエムとなってしまった。


尚七つ釦は我が母校の襟章にも引きつがれたのか、錨のマークが入っている・・・


〜続く〜