迷いの1月末

停車する駅。
左手の古い集合住宅の一室から、ちいさい灯りが漏れている。



ゆっくりと新幹線が止まり、ホームに、ちいさい子現れた。
すぐにふたりめのちいさい子が現れ、
母親と思われる方がふたりめのちいさい子の帽子を直していた。
いい位置に立っている親子だなと思う。



粉雪がちらほら舞っている。
震えながらちらほらと舞っている黄昏だ。



私はもう四年半以上入院している者への見舞いのへ道。
朽ち枯れた腐った因縁だけれど
私が行かなくてはならない因果だ。
つまらん人間だが自分が動くことで救われる人物が遠い地に居る。
私にとって儀と仁以外に何もありゃしない存在だけれど、
他に頼るものが居ない哀れな存在を
・・・どうして無視できようか。



私は思う。
本当は自分自身に対して自らの幸福を求めるべきだ、と。
幸せのためには北に行くべきではない。
錆付いた鎖は、自らの手で断ち切るべきではないのか?
知らない振りして無視していればいい、
その余地を持って違う道も歩くことが出来るはずだ。



何年も考えてきた。
声に出して逃げることはできない。
女性と二度とかかわるまいと誓って六年以上になるが
無理すんなと笑っていたのはYだった。



560キロのディスタンスがなかなか開放してくれない。
あの一室の中に妻とちいさなふたりの子を待っていてくれたのなら、
寒かっただろう、食事作っておいたよ食べなさいと待っていてくれたのなら、
三人で幸せがつかめるはずたった。
しかしもうその願いはかなわない。



私にはそんな現実がなかった。


涙が少しだけ視界をさえぎる。


三人の親子がホームを出ようとしている。
灯りある一室に誰もいなかったら声を出して泣いてやろうか。
居たら微笑みを向けようか。
所詮他人のことだ、
確認できるはずがないじゃないかと苦笑する。


このまま負の生き方をするのか?
それとも柵を切断して・・・


左手の灯りはこの三人を待つ人の家だと、いい。


思案するうちに、新幹線が動き、三人は消えていった。