箱舟が出る港 第一劇  一章 渚 一

murasameqtaro2006-06-14

 岩礁
浪が突き刺さる。
岩の割れ目のように、
磯前五平の顔には、
深い皺が刻まれていた。
もっとも皺だらけの顔には、
左のコメカミから、唇にかけて、
哀愁の傷もあった。
 五平は旧制中学を出ると、家業である網元として漁業に従事していたが、
帝国海軍に徴兵された。ひどい時代だった。自由なき時代だった。
 徴兵とは問答無用の国民皆兵、即ち戦いを暗黙裡に義務付けられる事である。
個人の意思などは存在しないに等しい暗鬱の流れ漂う時代であった。
 ミッドウェイ海戦に参加、沈没した駆逐艦、意識が戻った後には、
救命ボートの中に居た。
顔の傷は海に放り出された刹那、何かに割かれたものと思われた。
あの顔、この顔、沢山の仲間を思い出す、死ねれば良かったと思う。
全ての戦友が、あの海戦で死んでしまったからだ。
海の中には今だ沢山の英霊たちが眠っている。
 終戦後代々続いた網元としての地位を捨てた、ただ一隻の舟を残して。
所有していた残り十八隻の舟を無償で地元民に開放した。
船団で海に出る事は二度としたくなかった。全て全滅し、また一人生き残る
ような気がした。
人は何故争うのかと思う。中東紛争などのニュースがテレビを流れるたび、
やるせない思いでいっぱいになる。
 打ち寄せた貝殻を、浪間に投げた。


 五平はふと気づいた。
―――はてと、何かが違うような
 双眸は、砂を波を岩礁を海鳥を、そして空へと順繰りと疑想させている。
いつもの海と同じだ。遠くで汽笛が鳴る、あれは笹島丸の汽笛だ。午前十時の
はずだ。
時計を見た。一秒の狂いもなく針はピタリと十時を指している。
 この海に生きてもうすぐ六十年になる。海の事に関しては何でも知っている
自負があった。
 いつもの海と、どこか何かが違う気がする。
なんかしらのフィルターが海を覆っている気が、する。
 暖かい海に浮く濃い魚影は、五平の足音に動じずに、逃げようともせず、
じっと背鰭を動かしていた。
 魚は敏感である。ちょっとした足音を聞きつけ、花火のように、飛び散る。
 逃げるどころか固まって、何かを相談しているような仕草であった。
―――この海は・・・生きていない? ではないか!?
 どこが違うのか、上手く言えないが、経験は何よりも確かだった。
 全く顔かたちが同じで、性格の違う双子の兄弟。
昨日の海が兄であるならば、今日の海は弟のようであった。
 齢八十になる五平の五感は、体全部を走馬灯の如く駆け巡り
瞬間を頭脳に集結させた。
―――この海はまるで写真の中ではないか・・・!?
 確かに全てのものが動いている、笹島丸の姿も見え出した。
 だが五平の直感はなんとも得体の知れない変化を捉えてた。
 再び貝殻を投げてみた。

 違う波間に投じたはずだが、同じ場所に流れていった。
―――えらいことだ、どうしだことなんじゃ、これは
 踵を返しヒラメ釣り用の五十号の重りを取り出した。
 力の限り遠方へと投げた。
するとどうしたことだろうか、放物線を描きドホリという音を残し、
二十メートル先ほどの波間に消えたかに見えたが、
なんと貝殻と同じ場所に落ちたのである。
 ほんの三メートル先に二枚の貝殻と重りが互いに愛撫するように落ちている
ではないか。
 それも微動だにせずにだ!!
 その時だった。
 水平線の彼方に、紺碧の空から何かが落ちた。
 人間の脳細胞の活動を一時的に遮断させる、霜が降るかのような
落ち方であった。
 体が勝手に動く。気が遠くなる。
 歳も歳だがと頭を振ったが、何者かにコントロールされた体を知ったのだ。

 ああ・・・俺はどう・・・したの・・・か?

 意識が薄れ逝く中、初秋の空には薄く月が透けていたのを見た。