箱舟が出る港 一章 渚 二

「よしっ、素晴らしい球だっ!!」
見守る野球部員達は一同に嬌声を上げた。
「おいっ!、何キロ出ている、飛田?!!」
監督である、太田垣英彦が聞いた。
聞かれた少年は、信じられないという顔をし、スピードガンにもう一度目をやった。
「こんな馬鹿な‥ひゃく、ひゃく‥167キロですよ、監督!!」
「オーッ!!」
野球部全員から、大歓声が再び上った。
「白川っ、お前バッターボックスに立て! 磯前っ、全力でもう一度投げろ!」
白川広はチーム一の長距離砲であり、プロも注目する大型スラッガーである。
磯前晴海はマウンドで大きく両手を水平に広げた。
大きく息を吸い吐いた、空を見上げた。
初秋の空が実に高い。 今日は潮の香りが特に強い。それにしても
今年の秋は暑い。九月二十日になるが、気温は三十度近いはずだ。
陽炎が揺れていた。 グラウンドから眼下に見える海を見つめた。
高月美兎‥美兎‥ この左腕は俺のものじゃ、ない‥だが、俺にどうしろと、
言うんだい?
晴海は肩を、グローブでトン、と叩いた。
誰も知らない体の変化が、そこにあるのだ。



「どうした磯前、早く投げろ!」
太田垣が全員が磯前に注目している。
日に日に増す晴海の球速と体。 白川などは問題ではないのだ。
その常識はずれの球威を見れば、野球をかじった者であれば誰でも解る。
例えプロでも磯前の球は打てはしまい、あるいは大リーグの強打者でさえも‥
プレートを踏んだ。
右足を高々と上げ、その細身の長身が蒼穹のようにしなった。
空気を切り裂く音が、ベンチにも聞こえる。
まるで真剣が飛んでくるような畏怖を白川は感じた。神聖な鋭さがあった。 
刺された感じが、する。高校生の投げる球ではないと思った。
バットを振る事さえ出来なかった。 捕手の鴨川真一は一歩も動かない。
球は構えた場所にまるで計ったように来る。 球が刃なら、ミットが磁石のように
思えた。
三年生のエース、郡司大介は、はあとため息をついている。
「白川、何をしているっ!! ど真ん中だろうがお前っ!!」
太田垣はそう言うものの白川が打てるわけがないのを熟知している。
絶対零度の中を飛ぶ白鳥がいたとすれば、晴海の球と同じ軌跡を描くのでは
あるまいかと思う。
「これも監督稼業。自分でよく考える事だっぺ」
磯前を見出した森内総監督は笑うだけで何も教えてくれなかった。
運動生理学からも答えを探していた。あの磯前が‥どうして‥と。



常央大学付属大洗高校。 県下屈指の野球名門高である。
野球部は百名を越す大所帯であった。
太田垣監督は、水戸市にある常央大学で海洋生物学の教鞭をとりながら、
この付属高校の監督をして二年になる。
部員の殆どが県内の中学出身であり、しかし主将経験者が殆どの有望選手
ばかりであった。
高台から眼下に海を望む、この学校に磯前が入学して来たのは、
今年の春だった。
地元の中学出身で、その時代投手としてさしたる実績は残していない。 
言わば無名の選手だった。
同じ市にある中学ながら磯前の名は聞いた事が無かった。
一ヶ月も持つまい‥当初太田垣はそう思っていた。

身長173cm、体重62キロ 遠投73メートル 百メートル走12.8秒。 
実家は、かつて網元だったと言う。
徳川水軍の由緒ある家柄だと、聞いている。 
入部時のデータだ。
野球に関しては、どこにでも居る平凡な中学生だった。
‥あの日が境だった、間違いなく確かに‥
太田垣は振り返る。




練習試合があった。 五月の晴れた土曜日の事であった。
千葉県の強豪、習志野商業高校が、訪れた。
試合は甲子園大会の県予選前哨戦として、ダブルヘッダーで組まれた。
一試合はお互いにレギュラー中心で戦いスコアは1-1の引き分けとなった。
二試合目は新人中心で戦った、チャンスと来年の為に。
先発メンバーに磯前の名は無かった。 コーチャーとしてサードベース
近くにいた。
七回途中、その気配もないのに、突然雷鳴が轟いた。 
刹那三塁側にある桜の木に雷が落ちた。一瞬の重い光りであった。
「全員引き上げろ!!」
試合は中断した。 雨は伴わなって、いない。
互いのチームは急遽ダッグアウトに退避、直撃された桜の木を見た。 
桜木の半分がなぎ倒され、残った半分の割れ目から煙が出ていた。
凄まじい一瞬だった。
「やばかったなあ、おい、晴天の霹靂とは即ちこれを言う、お前のレギュラー
入りと同じさ」
白川がおどけた口調で新人のサードを見て大笑いした。
「全員避難したか?」
太田垣がベンチを見回した。
「そのはずですが‥あれ‥?」
鴨川はサード方向に人影を見た。
「磯前がまだ居ますっ、カントク、それも木のそばに!!」
「あの馬鹿たれ! おーい、早くもどれっ、死ぬぞ!!」 
太田垣はベンチを飛び出そうとした。
その手を白川が軽く引っ張った。 
「まって下さい監督、空は晴れてます、風もありません、大丈夫と思います‥
それよりも、それよりも・・・ あいつは誰だ?」
わなわなと指差す先に、ほっそりとした少女がたたずんでいた。
美少女と言うことが、遠めにも解る。
磯前と見つめ合っているように見えた。
まるで舞台のように、そこだけが煌びやかなライトが当っているかに見えた。



‥だれだあいつは?‥・いつ‥・現れた?‥・
そこに女など一人も居なかったはずだ?‥
全員があっけにとられ凝視している。 落雷とともに、現れたとしか、思えない。
「おいマネージャー、中村麻衣、桜井ひろみ、あの子を知ってるか?」
二人は部員の一番奥に居て震えている。
「どうした、怖くないから、よく見ろ!」
飛田が二人を前に連れ出した。
「知りません見た事もない人ですぅ‥」麻衣が脅えたように言った。
ひろみはまだ震えている。
「習商側も知らないとの事です」
主将でセンターを守る甘粕大地が走り込んで来た。
両チームの全員がこの風景をあっけにとられ見ていた。
空は何事も無かったように静かに流れていた。雷など落ちる要因は
一つもなかったはずだ、あの日‥・
太田垣はマウンドの磯前を見つめていた。
高月美兎か‥転校生だと言う。
何かが始まる予感が、した。ポケットから煙草を取り出した。
紫煙が流れる。
空に吸い込まれるように、流れた感じがした。