箱舟が出る港 一章 渚 四

murasameqtaro2006-06-18

空調が程よく効いていが、
粘っこい体感。
外はおそらく30度を越す
はずだ。
ツクツクボウシ
別離のハーモニーは、
吸盤のように
未だに消える気配がない。
底知れぬ不気味な集団となり、季節を止めていた。
夏に現れる生物は、未だ消える気配がないのだ‥・
虫達にとっては、永劫の命を与えられたかのようだった。
異常気象が叫ばれてから久しい。
それにも増して今年の夏は異常であった。
もはや異常ではなく、超常と言ってもよい。




10月2日、熱帯夜の連続記録をまたもや更新した。
未だ気温の上ではおぞましい「夏」なのだ。
これまでの日本の記録では1994年が最高である。
大阪の75日、広島73日、東京が47日である。
連続173日、五月から夏は続いている。
稚内では本日三十三度五分です、と言うニュースが、気象庁から流れた。
この現象は日本に限ったわけではなかった。
ニューヨーク、オタワ、北京、ウラジオストック、、モスクワ、サラエボ
ベルン、パリ、コペンハーゲン、ロンドン、ストックホルム、そして
レイキャビクも今だ夏の様相を続けている。
グリーンランドの光景をテレビが伝えていた。
そして今、南極の氷が異常に溶け出したと、テロップが流れていった。
陸にある水の大部分は氷である。
氷河や積雪をはじめ、湖沼や河川の氷、そして永久凍土の氷などである。
氷の総量の98%以上が大陸氷河であり、その9割近くが南極大陸に、
9%ほどはデンマーク領、グリーンランドにあると言う。
陸地の氷河の拡大で海面は下がり、必然的に氷が溶ければ上がる。
地球上の氷が全部溶けると、海面が今より約65メートルも上昇する
という説がある。
世界中の大都市の多くが水没し、海の面積も4%ほど増えると言う。
約2万年前の氷河期には、現在の3倍近くの氷が陸上にあり、
海面が今より約130メートルも下がっていたと推定されると言う。
インターネットでは様々な憶測、議論が飛び交い、パンクしたサーバーは
数知れなかった。
環境破壊を繰り広げる人類は、初めて知ったかのように、異変を真剣に
論議し始めた。
もっとも、いつまで続くのか‥・作物への影響は‥株式市況は・・・
殆どがそのような、エゴが垣間見える「たわいもない」論議ではあった‥・。




三人は向かい合っていた。
「‥・煙草はやらんのでね、すまないが、やめてくれないか‥」
青白い皮膚、剥ぎ取られたように痩せた頬、虚ろな目は換気扇を
捉えたままだった。
得体の知れない不安ばかりが加速している。黙秘する事は出来る。
が、どうしようと仕方がない、もはや叫ばねばならないのだ、
人類に向かって‥・
時間が、ないのだ。遅いか早いか、だけである。
―――あと一年もない、人類の命であっても
一年もない命か‥・ツクツクボウシの鳴き声が、悪魔のように感じた。
交代の時間が迫っている‥代わりに来るのは何者か‥・
お前か‥ツクツクボウシ?



首のあたりに冷や汗が流れて来た。全身が暗雲に覆われていた。
外の異常な光りと対称的に。
そのバランスを、同僚の二人がかろうじて支えていた。
「‥・強奪されそうになったんだ‥・」
山下道則はようやく二人を見つめながら呟いた。
「‥・いや、その煙草、僕にもくれ、気が変になりそうだ‥・
僕の歴史的瞬間だ‥」
おびえがある。震える細い手で太田垣からセブンスターを受け取った。
「ほう、盗まれそうになった? 何をだ? まさか金ではあるまい、独身の
貧乏学者から暴力団が何を盗むと言うのかね、ほれ」
菰野がライターを出し、火をつけてやった。
「美味いだろう、先カンブリア紀先生、お前さんの歴史的瞬間を確かに見たよ、
なぁ?」
太田垣は山下の目を優しく見据えた。ある程度山下の心の中は読めていた。
―――磯前晴海、高月美兎 ・・・
太田垣もまた何かの始まりを感じていたからだ。
「いや、美味くもなんともないよ、よくもまあ君達こんなものを‥
が、もはやどうでもいい事だがね‥‥どうしようもないんだよ、太田垣、
そして菰野先生‥」
咳き込みが研究室にこだました。
漆黒の予感が込められていた。
――― この男は何を言い出だすのだろうか。
菰野は運動生理学の立場から山下を観察していた。
瞳は虚ろではあるが、狂気は何処にも見えなかった、ただ脅えだけが
浮かんでいる。
「あるデータがここにある・‥」
意を決したのだろう、きびきびと山下は鞄の中から、一枚のCD-ROMを
取り出した。
教鞭をとるかつての山下の姿が蘇った。
「何が入っているのだ、山下先生」
太田垣がそれを取ろうとした。
「何も入っていないよ、太田垣先生‥・空だ‥・」
そのCD-ROMを無造作に机に放り投げた。



「どういうことだね、山下先生、俺達を馬鹿にしているのか」
菰野の目が鋭く光った。
菰野は拳正道の達人で、全日本を捕った事がある。
常央大学応援団の部長をしていた。
その気迫に山下は全てを告白する意思をさらに固めた。
―――いずれにせよ、遅いか早いか、分かる事だ‥・
太田垣も鹿島神流の剣道の段位を持っている。
同じ大学に勤務していても、この二人は、やはり知らないのだ。
見事なまでの、緘口令であった、学長の顔を思い浮かべた。
この二人にはウソは通用しまい‥
山下に無い強靭なものがある。
澄み切った、四つの眼、信じられると思った。
―――ならば‥・ここで話してもよかろう‥・
二人ならあるいはなんとか「救済」出来るかのような感じがした。



 「僕は"思い出"を研究していた。言わば霊界、幽霊の研究といって
いい。これはダミーなんだよ。・‥原本は学長が持っている。
医学部のあの御大さ。彼らは三年前ら知っていたんだ。やまぐも計画
をご存知だろう・・・もっとも僕は核となる半分だけだがね。
7ヵ月前に知ったよ・・・。常央大はプロジェクトを立ち上げ、極秘に
ある調査をしていた‥その対策をもだ。能無しの政府は未だ気づいては
おるまいよ。・‥横取りされそうになったのは、そのデータの一部だよ
。狙ったのは政府筋さ。何か勘違いしているらしいがね。やくざは政府
の手先。日本の裏側を仕切る広域組織さ。金で契約を結んだのだろう。
常央を甘く見たんだろうが、応援団の猛者のせいで助かったよ。
やくざごときでは相手にならんだろうね、連中が相手では‥・
まずはお二人に礼を言おう‥・ところで太田垣先生?」
山下はコーヒーを一気に飲んだ。



眼光が一瞬鋭く光った。
真っ青な顔色の中、目ばかりが光芒を放った。
「‥・僕は知っての通り運動に関しては何も知らない。
確認の意味で問おう‥・磯前晴海と言う高校生が付属高校の大洗に
居るだろう‥・? 彼がこの未曾有の異常気象の鍵の一方をどうも握っている
らしいのだよ‥・磯前とは何者なんだね‥・答えてくれ‥・僕が知っている
事はその後、全て話そう‥・」
―――やはりそこに、やはり磯前に来たか‥
この超常気象は多分暫く続く‥しかし‥いつまで?
太田垣は煙草を揉み消すと静かに立ち上がった。



渚。
茨城県大洗。
鋭い太陽の光が海を切り裂いているように見えた。
幽玄な光景であった、あたかもモーゼの十戒のように。
何処へ続くのだろうか、人間が進む道ではないだろう。
逆に水平線の向こうから、何かがやって来る神聖な傷に見える。
来るものがあるとすればそれは神しかいないだろう。




渚の近くにはダイダラボウの伝説があった。
水戸市大串(大櫛)貝塚古墳。
文献に記された貝塚としては、世界一古い。
常陸国風土記にはこうある。
昔このあたりの高台にダイダラボウと言う巨人が存在し、
そこから手を伸ばし海から貝を採って食べたと言う。
貝塚はその名残りであると言う。
常陸の国にはその手の伝説が多い、下妻市には池の民話がある。
巨人は太古の神だったのかも知れない。
地球の先住者だったのかも知れない。
神々が手を伸ばしている光景を渚は知っているのかもしれない。




海を背後に砂浜の向こうに竹林が乱立してた。
誰かがそこからやって来る。
おそらく漁師仲間の権爺だろうと思った。
竹で自前の釣竿を作る事を余生の楽しみとしていた。
砂浜を奏でる低い音を磯前五平は倒れながら聞いていた。
どれほどの時間が経ったことであろう。
あの銀色の球体は何だったのか。放出した、モノ、は何だったのか。
空を見上げた。熱風が流れる。何処にもその姿は、ない。
夢だったのかと砂を手にした。老いぼれたのかと砂を離した。
歳なのだと、かたづけるのはたやすい。かたづけた方が理にかなうであろう。
いかに海が異常であっても、あんなものが現れるはずがないのだ。



「‥権ジイかぃ‥」
渚を移動する音が近くなった。
「‥・」
返答がない。
―――どうしましたか?
権ジイでなくても、そう問うのが人の世の常であろう。知らない誰かでも。
倒れているのだ。
砂浜を歩く音がいよいよ強くなった。歩く? 引きずるような、音だ。
五平との距離は十メートルにも満たないだろう。
おかしい‥・音が違うのだ。
ズルズルと恰も蛇が這うような小さな音でもある。
何かが電流のように五感に問いかけてくる。
―――人間の足音ではない‥・?
その音が突然変化した!ピョンピョンとまるで跳ねるかのように!!
飛散した砂が五平の顔にかかるほど、何かが近くに来ていた。
五平の体は碇のように固まった。このまま砂浜に埋もれて行くような
重さを感じた。
「オギャー、オギャー!!」
高らかに泣いていた。やって来たのは、何と、赤ん坊であった!!
赤ん坊が歩いて来たのだ!!
いや這って来て、飛び跳ねたのだ。
生まれたてのように、その体には血液が付いていた。
へその緒が生々しい。
五平は仰天した。
赤ん坊が這うのは未だいい、当たり前の話だ。
この現象のこじつけは、強引に何とでも出来る。だが赤ん坊には‥・足が、
なかった!
在るべき場所には魚のような尾ヒレが付いていた。
 ―――こっ、これは、人魚だあっ!!
本能が五平を立ち上らせた。
‥・あわわわわわわ‥・呻きが大きくなった。
かける言葉などひとつも出なかった。
赤ん坊は五平を無視したように、泣きながら海に入った。
首を左右に振り、そして体を振った。
五メートル程泳いだとき、赤ん坊が振り返った。
そして何と言葉を発したのだ。
「‥・おじいちゃん、あなたの顔の傷をよく思い出して欲しい、あの海戦を‥・
おじいちゃんはある力で助けられたんだ‥・必然だった‥
いずれ解るだろうけれどね‥・僕が何者かって‥・父親は剣持正和、
母は順子、ふたりの子供だよ‥・しかし‥・さよならなんだよ‥」
それだけ言うと赤ん坊は、物凄いスピードで波間に消えた。



五平は言葉にならない叫びを上げながら、渚から逃げ出した。