箱舟が出る港  第一章 ニ節 漣  一

murasameqtaro2006-07-12

アスファルト
陽炎が乱舞している。
陽炎は渦を巻き、
ある匂いを纏っていた。
それは線香の香りにも似、
哀しくもはかなく
懐かしいものでもあった。
妖気。
これもあちこちに流れていた。
その日は大漁であった。
真鯛を主にして、ヒラメ、カレイ、シロギス、アジなどの
外道も、はえ縄に掛かっていた。
笹島丸の若船長、笹島京平は、その中に見た事もない魚を捕獲した。
―――-こりゃ、ちいと変だが、鯛の仲間だっぺなぁ・・・
おかしな魚だな‥・とふと思ったが、大漁に気を良くしていた。
もともと単細胞な男である。
それきり気にも止めなかった。
午前十時を少し過ぎたところで、舟は大洗の港に着いた。


濃人 権市。
通称権ジイと呼ばれる漁協の監事、この界隈の重鎮である。
齢八十三歳だいうが、赤銅色に焼けた、岩のような容貌
は歳を感じさせなかった。
往年のアメリカの俳優、グレンフォードに、なんとなく似て、矍鑠としている。
船着場で笹島丸認めた。
「おうい、若船長、その顔では、大漁だったようだな」
権ジイが笑いながら歩み寄って来た。ボブソンのジーンズが、歳の割りには、
似合っている。
信州美濃の出であり、祖父の友人だった男である。
「おうよ !これから暫くバカンスだっぺよ、権さんよぉ、今夜一杯おごって
やっぺかィ」
笹島京平が満面の笑みをたたえ、舟に上がれと権ジイを手招きした。
「俺の新記録だっぺ、ほれほれ、見てみな」
権ジイは笹島丸に登り、獲れたての魚を見回した。
「ほう、いい形の真鯛が多い。若いわりには、やるの、おめえの爺さんも、
オヤジもあの世で喜んでいらあな、これでやっと一人前ってトコかい、ん?
‥・ちょっと見せてみい?‥・」
「どうだ。尺上ばかりだ。でかい奴ばかりだろう、殆どが真鯛さ、さあてと、
いくらになっぺかな?」
京平は舟のクーラーボックスから一匹の真鯛を、網で取り出そうとした。
「そいつじゃねえ! その目の赤いヤツだア!!」
「おお? これかい、ちよっと変なヤツだろ?」
約三十センチはあるだろう。



「・・・京平よ・・・お、おめえこれを何処で捕った・・?」
権ジイはいかにもありえない、という表情をし、考えるしぐさをした。
ナノバブルなら、ありえるかも知れないが?
但し水槽の中だけの事である。
ナノバブルは、直径が1mmの5000分の1ほどの、目には見えない小さな泡。
淡水の金魚と海水の真鯛が一緒に泳ぐ水ができるなど、とても不思議な力を
秘めている泡だ。




広大な太平洋全てが、ナノバブルに揉まれるはずがない。
「いつものポイントた゜っぺよ、権さん、それがどうかしたのかィ?」
「・・・おめえ、こいつは何だと思う・・・?」
「何だって、そりゃ鯛に決まってら、鯛の仲間と違うのか?」
「ばかたれ!・・・やはりまだまだ半人前だっ、おめえはよう・・・」
権ジイは心の平衡をつかさどるように、大きく息を吸った。
こんな事がありえるんだっぺか、はじめてだ・・・



「京平よ、よく聞け・・・こいつはな、鯛なんかじゃねえよ・・・」
「ああん?・・・おかしいとはオラも思ったが、んじゃ何かい、ナンかの
奇種かい、真鯛覚醒剤でも打ったんだろ」
京平はガハハとバカ笑いした。
大馬鹿野郎、これはな、淡水魚だっ! 海などに生息出来るはずがねえ
代物だぁ!!」
何だってと京平は、バカ笑いを辞めた。
 


川、湖沼のウナギやアユ、サケのように一生の一時期を海水で過ごす魚は、
確かにいる。涸沼川にも、ボラやスズキなど一生の多くは海水で過ごすものの、
一時期に限り淡水に移動する魚もいる事は知っている。
だが、それらの魚とは、まるで姿が違うのだ。
「じ様・・・なら、何だと言うんだい?」
その魚の赤い目は血のように、鬱血している。
言葉が喋れない魚は、その目で何かを訴えているように見える。
「これはな、ディスカスと言う・・・生息地は南米あたりだっぺ・・・そしてな、
南米はアマゾン川あたりに生きる・・・熱帯魚だ・・・・また、ハゼのような
小さい魚もいるな? すくって見せて見ろ。たまげるなよ、おそらくそれは古代魚
シーラカンスだ。・・・こんなに小さいシーラは、世界でもお目にかかれぬはずだ。
しかし・・・しかし・・・どうして・・・?」


まさか・・・田井閣下の予言が!!
権は遠い昔を思い出した。


笹島丸の大漁旗が、風を受け、よろめいた。