箱舟が出る港 一章 渚 三

murasameqtaro2006-06-17

常央大学
付属病院。
・・・痛いんだろうなぁ
・・・男には分からねえ
痛みなんだろうなぁ
さしずめキンタマ
蹴られた痛みと
言う事かなぁ・・・おっと、
すいません。
看護士とぶつかりそうになった。


剣持正和は一箇所しかない、喫煙所で煙草を吸う。
分娩室から八分も歩く場所にある。
愛煙家にとって近頃は地獄だ。
オフィス、駅、公園など喫煙所は忌み嫌われたかのように、目立たぬ
所ばかりにある。
近頃肥満気味の剣持にとっては、苦痛であった、歩く事が。
煙草が吸えない苛立ちが、歩く事を苦痛にしているように思えた。
剣持は三十四歳になる。扶桑新聞社の水戸支局に勤務していた。
立会い出産を妻である順子は望んだ。
側に居てくれ、と懇願した。そんなものが出来るかと最初は拒否した。
「あなたの子供じゃない、それも最初の子よ、命の誕生よ、
その瞬間を見届けてよ。それに‥私だって怖いのよ‥不安なのよ‥
だからお願い」
順子が小さな声で続けた。
「分かったよ、でもやはりかっこ悪いな、オヤジは待合室で、オギャーの
声を聞くのが一番と思っていたけどなァ」
社会部記者は多忙である。女心を始めて知った気持ちになった。
チャームポイントの笑窪、順子が笑った。
「貴方はいつもシャイね・・・ありがとう」
陣痛がはじまった。
痛いと体を捻る妻の腹部を大丈夫かと剣持は撫で続けた。
三十分も続けていただろうか、若干痛みが弱まったようだ。
「これだと未だ少し時間がありますね。剣持さん、一息入れていいですよ」
若い女医が微笑んだ。
この際タバコを辞めようか‥剣持は首を振った。




常央大学は水戸市に本部を置く総合大学である。
医学部、薬学部、理工学部、経済学部、法学部、文学部、商学部農学部
体育学部の合わせて九学部。
学科は三十七を数える。傘下に付属高校をも置く、地元の大洗そして鹿児島の
指宿である。
学生数二万九千名。地方の私立大学ではあるが、偏差値は高く特に医学部と
理工学部は、中央の大学にもひけをとらない。
北関東以北の私大では偏差値、学生数とも最高、最大である。
看板は脳外科と地質学、それに生物学科であった。
太田垣英彦は理工学部海洋生物学科の助教授である。
出身は神奈川県三浦。東京の水産大学の大学院を出て暫くそこの助手をして
いたが、恩師の進めと海があり四年前に常央大に移った。
今年四十七歳になる。子供の頃は野球と釣りばかりの日々だった。
プロ野球の選手か魚の研究をするのが夢だった。
湘南東高校時代、投手として春の選抜に甲子園に出場した。
同期に巨人の原辰徳が居た。
秋季関東大会決勝で対戦した東海大相模は、湘南東など足元にも及ばない
強さだった。
投手村中の前に打線は沈黙、原、そしてこれも後にプロに行く津末に
ホームランを打たれた。結果は17-0、完敗だった。
選ばれて、いる。
見つめられたあのような人間が、プロに行くのだとつくづく痛感した。
選抜でも15-0で森内前監督率いる常央大大洗高の前に、完膚なきまで叩き
のめされた。力の差を痛感した。
卒業前いくつかの大学から誘いを受けたが、野球を続ける事を断念した。
プロへの夢は自らが遮断した。
人には運命には逆らえない、人の世には何らかの法則がある。
原の打棒や森内監督の見事な采配を目にした太田垣は、見えない摂理を
若い心に刻み込んだ。



水戸市南町。
「あれはカンブリアじゃないか?」
菰野広重が指をさした。
「おう、青ビョウタン君だな、短違いない、おいおい、太田垣よ、
絡まれているようだぜ」
太田垣も通称カンブリア、常央大の同僚、山下道則を認めた。
相手は七名程いる。人相が良くない。一見して暴力団と思われた。
「何したんだろう、あいつ、喧嘩など無縁の奴だが?」
女の恨みかなと、菰野が大声で笑った。
ひ弱な一人の大学助教受と、七名の屈強な暴力団
彼の性格からして、考えられない構図だ。
女や金の絡みなど、単純なからまれ方ではないだろう。
何よりも太田垣と菰野は山下の性格を熟知している。争い事には全く
無縁の男なのだ。
「森内さんや磯前の話は後にしよう、助けないわけにも行くまい、常大援団っ、
起立せよ!!」
太田垣が鋭く号令をかけた。
「押忍!!」
ガラン!!
五つの重厚な音が一斉にコンクリートに響いた。
五名の黒服が時代遅れの高下駄を鳴らして隣の屋台から立ち上がった。
「どうしたでありますか、先生?」
ぬうと現れた学生服を着た、坊主頭のごつい長身。
「見ろ、山下君が絡まれている、助けろ、知流団長」
「おう、あれですか。諭すのは相手次第、行けっ!」
六名が風のように走り去った。


「なんだよ、なんだよ、てめえらは、ああ!?」
下駄の音にさすがにたまげたのであろう。相手は大男揃いだ。
兄貴格がずいと、虚勢を張り前に出た。
男を売る家業、逆らう奴はどんな手を使っても殺さねばならぬ。
その窪んだ目が恫喝した。
凶暴な光りが宿っている。知性のかけらさえない。
懐に刃物を飲んでいる事を団長は見抜いた。
「神様ですよ、チンピラの方々、皆さんには無縁の存在ですね。その人をかんべん
してやってくれませんか?」

「なっ?  なな・・・何を言いやがる、ガクセイのくせしやがって、殺されて
えのか、てめえらァ!!」
「殺すか・・・さあ、どうかな、チンピラ君・・・原島あっ、丁重にご対応しろ!!」
話し合いには応じられないという事か。不本意だが、ならば゛、だ。
「押忍っ!!」
原島と呼ばれた青年が前に出た。
下駄を脱ぎ、空手の構えを取った。
残りの五名は腕を組んで、ニヤニヤと見ている。
「こっ、この野郎なめやがって! 山桜会を知らんのか!? ここまで来たらごめんは
通じないぜ、兄さんたち!!」
「野郎!」
ドスを手に持った暴力団のひとりが、原島に飛びかかった。
原島は腰を静めた。なんと遅いパンチだろう。
鍛錬しろ、クズどもが。蝶が舞うような俊敏な動きと、鍛えられた太い腕。
難なく拳をやくざの腹にたたき込んだ。
一瞬の勝負だった。






生まれたのだ。
俺の子供が!!
剣持は泣いていた。


その日新しい生命が誕生した。
しかし人類にとって、崩壊のプロローグでもあった。