箱舟が出る港 一章 ニ節 漣 二

murasameqtaro2006-07-14

エドウィン・E・
オルドリン。
アメリカ合衆国
宇宙飛行士。
人類が初めて月に到達した、
その時のクルーの一人である。

アポロ11号
1969年7月の事であった。
月での活動、
後に多くの体験を語ったが、
就中オルドリンの言葉で
最も興味深いものは、宇宙へ出て神と対話したと言う事だろう。
それは極めて抽象的な表現であり、神を見た訳ではない。
心に思っている事を問う、すると神は、すぐ側に居てくれて、答えてくれたと言う。


人類が月に行ってから、すでに三十六年になる。
一人の子供が生まれ、すでに結婚し、社会の中枢を担っている長い時間・・・
科学は目覚しく発展した。
が、宇宙開発だけは、時間が止まったままだ。
スペースシャトルで宇宙を飛び回るだけで、以後月には、三十六年経過しても、
一度として行っていない。
当時のケネディ大統領の計画によれば、とうに月面基地など完成しているはずな
のだ。
行きたくても、いけないのだろうか?
何者かがいるとでも、いうのだろうか?
アポロ計画は米ソ冷戦時のプロパガンダもあったのだろう。
しかし、莫大な金と人をつぎ込みながら、17号を最後に突然計画は終了された
歴史を持つ。予算はまだあったにも関わらずに。
もって帰ったのは、なんと石ころだけである。
月は鉱物資源の宝庫でもあるのにだ。


一方ミクロの世界。
例えば遺伝子の研究。・・・凄まじい勢いで進んでいる。
トマトなどの野菜はもとより、牛などの動物のクローン技術も可能になったのだ。
人間はある意味で神にもなったのである。
生物の細胞の中に存在する、核。
ここに遺伝子情報が有る。その数にして三十億と言われる。
生物はこの情報によって生かされているという。
情報、即ちプログラムと読んでもよかろう。ならばだ。
地球上の生物のプログラムは何者が書いたのだろうか・・・?




知流 正吾。
常央大学付属大洗高校柔道部主将である。
常央大柔道部主将の大吾は兄にあたる。
その兄は、応援指導部の部長も兼ねていた。助教授山下道則を助けた、あの、
団長である。
柔知流館(やわらちりゅうかん)、鹿児島は鹿屋にある実家は、柔道場を
構えていた。厳格にして知識人、人格者なる祖父も父もそれぞれ講道館の六段を
持っていた。
兄の団長は才能もあったが、それよりも凄まじい努力家でもあり、その力量は
ここに来て開花、現在世界でも十指に入る所まで上りつめた。
常央大体育学部に在学する、有力なオリンピック候補であると言われている。
血筋をひき、勤勉家でもあり、学業も高いレベルにあった。
若いわりには、稀有な人格者でもある。
例えば応援指導部。
常央大エンダンは、主に体育学部武道系に属する学生によって構成されている。
・・・幹部、それは各部の主将である。
副団長にボクシングの黒沢 聡、渉外部長に空手の毒島 清人、統制部長に
レスリングの白拍子 兼康、旗手長親衛隊長に相撲の荒木田 豪輝。
やくざ七人をたったひとりで完膚なきまで叩きのめした倒した原島は、空手部の
副将であった。
これらの一騎当千のつわものを纏めるのは、力などではない。
・・・それは、力の到達点を知る感受性を持つ者。人を惹きつける魅力ある者
は、約束の地を知っている。
知流以外の強者は、各部の主将、そこまでが人間としての器であった。
また知流自身も、それを知っていた、この連中をどこへ連れて行くべくかをも。


一方正吾の人格は、曲がったベクトルに加速してしまった。
兄への憧憬と葛藤であった。
中学時代その腕力にものを言わせ、暴走族を率い鹿児島一円で大暴れし、
警察のお世話になったのは一度や二度ではない。
小さい頃から兄を目標にしていた。しかし何をしても兄には勝てなかった。
高二になってから、鹿児島の常央大付属指宿高校から転入した。
来年、常央大へ進学する為の準備をも込めてではあるが、もはや父も
地元の警察も手がつけられず、追っ払われたというのがむしろ正解である。
正吾が絶対に頭の上がらない人物が、水戸にふたりいた。
兄と体育学部の菰野広重だけであった。
この二人に管理して貰わなければならない。
丸刈りの頭、太い眉、大きな射るような双眸、190センチはあるだろう
堂々たる体格。真面目に道を追求し血の滲む努力さえすれば、
あるいは兄を凌駕する存在になったかも知れない。
まだまだ若いのだ。ドロップアウトするには早すぎる。




「おじけずに良く来たな」
正吾は柔道着を身につけ、のっそりと屋上にやって来た。上を見上げた。
磯前晴海は天体望遠鏡を観ていた。
「おい、よく来たなと言ってるんだよ、聞えねえのかてめえは」
正吾は血管を浮き上げて、恫喝する。
「・・・よく聞えています、今降ります」
天体ドームへの短い階段から、晴海は降りてきた。
「用事は分かっているな?・・・で、どうなんだ、高月から身を引くのか」
二人は対峙した。
今や晴海の身長も正吾にひけをとらない場所まで成長していた。
晴海は微かに微笑んでいる。
「高月は俺が貰う、いいなお前は手を引け、これ以上彼女に近づくんじゃ
ねえぞ」
分かったな・・・刹那、正吾は突進し、晴海のカッターシャツを掴みに出た。


たいていの相手なら大内刈りが決まり、悶絶するはずである。
ところがそこには晴海の残像だけが存在していた。
驚くべき速さで、正吾の攻撃を避けたのだ。
背後をいとも簡単に盗られてしまった。
「おっ、おまえ、野球だけでなく何かをやっているな?その動きは、太極拳か?」
正吾は振り返り再び大きく熊のようにおうと両手を広げた。
息が荒い。動悸が重い。冷たいものが首筋を流れた。
対峙して負けるかも知れない事を即座に危惧はしたが。
晴海には隙が全く無いのだ。



水平線に浮かんだ入道雲の如く、助序に威圧される感じが、する。
三分も睨みあっていただろうか。晴海は口元を涼しげに開いた。
「よしましょうよ、知流先輩。僕と高月に恋愛感情はありません。
叱られるでしょうが下衆の勘ぐりと言うものです。高月と僕が出来ている
と言う噂は知ってます。でもそれは違う。確かに僕たちは行動を一緒に
している事が多い・・・それは野球に関しての事だけなのです。
彼女とは課外で会った事は一度もないんですよ。高月はスポーツ選手の肉体に
凄い理論を持っている。
知流先輩ならこんな噂も聞いた事があるでしょう・・・
この世のものと思えない美少女・・・仏のようなオーラを感じる・・・
東大に一番で合格確実・・・何か人間じゃないみたいとかの・・・」
「お、俺は、神秘なそこに惚れたんじゃぁ!」
正吾は顔を赤らめた。性根はまだ純粋な少年と思える。
「・・・僕も彼女のことは未だよくは知らんのです。転校して来たばかり
という事もありますが・・・この際ですからお話しましょう・・・
彼女は僕を何らかの目的の為に、選んだようなのです。
意図は僕にも理解出来ません。恋愛の対象ではないんです・・・
僕は少なくとも彼女をそう見てますし、彼女もそう思ってます。
ただ、高月といると、まるで高月のいる世界と同化する事が出来るようなのです。
高月の持つ能力も、少し吸収出来ました・・・」
正面から綺麗な瞳が正吾を見据えている。
全く濁りも迷いもない、しかも直線の軌道である。
乱暴物と言えど武道家は、流石にたちどころに本音を読んだ。
ウソはついていないのだ。


「・・・ふん、いいカッコもしてねえようだな。よし、分った。おまえが高月と
出来ていない事は良く分かった・・・俺が悪かった・・・で、高月のいる世界と
はなんだ?・・・能力とはなんだ?俺には難しくてよくわからんが・・・どうも
へんな話しだな?」
結構素直なところもある正吾。
「僕にもよく分からないのです。ただ分かる日が来ると彼女は言ってます。
その時僕の左腕が必要になるとも・・・能力については、今はいえません」
晴海は左腕にチラと視線を送った。
今はそこの秘密を話す時間ではない。
「んな面倒な理屈はどうでもいいがな、要は好きか、嫌いかだ。好きだ。だから
俺は力づくでも彼女をモノにするぜ。女はやっちまうに限るぜ」
正吾は片目をつぶって笑って見せた。
「やめろとはいいません、しかし・・・・」
「何がしかしだ? 文句あるのかィ?」
「いえ・・・ごめんなさい。なんでもありません」
「変なヤツだな、・・・、ああ、おめえよ?」
「確かに。・・・近頃・・・少し、そうかも知れませんね」
晴海は頭をペコリと下げた。
「・・・すいません、祖父が倒れたようなのです、これで失礼します」
ロウソクを点す気配が、高台の向こうの海から、やって来る。
あたまぁ、あがらないやつがもうひとり出来たなぁ・・・
正吾は呟くと、去り行く晴海の何故か寂しそうな背中を見送った。


光る海に、決断の熱いクサビを打ち込むと、思い切り背伸びをした。