箱舟が出る港 一章二節 漣 三

murasameqtaro2006-09-29

長い静境を
語るように、
超豪華客船
ミリオンダラー号の
波動は、
真直ぐな軌跡を
後にしていた。
ミリオンダラー号は
サンフランシスコ港を出、
一年間で世界一周を旅する。
値段は文字通り百万ドル、日本円にして約一億一千万である。
―――金持ちは居るものだ‥・
出航して、24時間が経過している。
船長であるジム・スタンフォードが、苦笑いしてコーヒーカップを手にした。
33000トン、全長210メートル、全幅33メートル、乗客定員2000名。
―――しかしだ、たった330名の乗客とは何故なのか?
それが皆目見当がつかない。
損益分岐を考えれば、1600名程度が、所謂トントンの点である。
通常なら中止だ、あるいは航海プランを変更しなければならない。
大赤字だねと呟き、薄い髪を鏡に映し手で整え、客室から海を見つめながら、
朝のコーヒーを飲んだ。



航海前にミリオンダラーは大改修を行ったと噂で聞いている。
ミリオン・ダラーの航海は通常二年に一度。
然るべき改修費がそのまま、料金に撥ねかえる。
詳しい改修内容、金額は知らない。古い船では、無かったはずだと記憶する。
分らない事はまだある。その話が舞い降りたのは突然であった。
ミリオンダラー号の船長として、世界一周の旅の指揮をして頂きたいと。
所有するフラワーオーシャン社からではなく、合衆国船舶協会理事長より、
直接の依頼であった。
勿論民間団体であるが、合衆国船舶協会は海軍と密接な関係がある。
理事長は元海軍中将のジミー・ローゼンフェルド。かつての仲間であった。
こんな老いぼれが何の役に立つのかねと、最初は固辞した。
船長は名目上でいい、君の名と武運が私は欲しいのだ、と
ジミーは食い下がった。あまつさえ乗客と同じ報酬を差し上げる、とも付け
加えたのだ。
貴方の名、とは軍神「マース」を意味する。
合衆国海軍の中‥・と言うより、マースジムというその名は、アメリカ中に
半ば伝説として存在していた。
―――安全のシンボルとして、君が是非とも必要なのです。
ジミーは重い鎖をぶら下げたように深く頭を下げた。



安全? 安全とは何か? 危険が存在して、安全の発想が出る。
確かに航海には危険が存在するが、ほぼ百パーセントに近い確率で、
沈没などの懸念は存在しない。客船はもとより、近代的な船の構造は、
台風などに巻き込まれても、沈まない設計になっている。
ひとつだけ沈む懸念があるとすれば、攻撃を受ける事である。
―――何もワシでなくても、現在の船長で十分ある。? とすれば‥
ワシではなくてならない、何かが、あるのだろう。
いくら軍神と言えど破格の待遇である。おかしいのだ。
ならば戦いであろう。大改修はその為だったのだろう。重く暗い何かが、
航海の中に潜んでいるのだ。
客船が何者と戦うと言うのか。こんな老いぼれが、どう戦うと言うのだ。
スタンフォードは、今朝貰ったばかりの航海図に目をおろし、確信した。
今頃遅い。
最初の寄航地はミッドウェイ島だという。
懐かしくも忌まわしい場所である。
戦いはおぼろげにも認識したが、どういうつもりなのか、
スタンフォードには分からない。
当面なりゆきを見守るしかないだろう。どうせ先行きはたかが知れているのだ。
84才の命は、もはや惜しくは無かった。




「地球外生命体の痕跡をつきとめた‥・」
山下の声は、舌の裏にナメクジが、憑依している。
「なんだと!? ウソだろっ、おい!?」
太田垣、菰野が同時に叫んだ。
もし本当だとするならば、21世紀どころか、有史以来最大の出来事となる。
科学体系、宗教、価値観などは180度変わってしまうかも知れない。
カップの中のコーヒーが、大波のように揺れている。
山下は指先で、二人をゆっくりと制止した。


「知っての通り常央大は、三年前に高萩から観測衛星を打ち上げた。
名目は宇宙からのオゾン層調査だ。そう、名はやまぐも計画だ。
衛星やまぐも、は多大なデータを送って来た。その中にだ、いいかね‥・
巨大な地上絵が写っていたんだ。有名なナスカの地上絵どころではない。
宇宙空間からのみ確認出来るしろものさ、その巨大さが分かるだろう。
最初は菱形に見えたが、その後の綿密なスキャン技術の確立で、
完全な魚の形と確認した。加えてだ‥・目と思われる部分が、正確にある
場所を見据えていた。どこだと思う? 近くさ。常陸那珂川だ。半径10キロ
の円形の中に描かれた魚の地上絵。そしてだ・・・そこを目指して飛行
する物体も写真に撮っている。これは市島学長が持っているがね・・・
僕は、絶望の逃走人の気持ちだった・・・」
山下は一気にまくしたてると、 ほらと手を出した。
「‥な、何かね?」
信じられないという顔をした太田垣が、その女性のような白く細い手を
凝視した。
「タバコもう一本、くれないかな?」


「少し、風を入れてみよう」
空気を読んだ菰野が立ち上がり、窓を開けた。
セブンスターの箱をトントンと叩き、一本を取り出し、太田垣は山下に渡すと、
火をつけてやった。
「熱い風だ・・・海からの風に、死臭のような匂いが混じっているようだな。
海岸に・・・沢山の兵隊が死んでいるかのような気分だよ・・・実に厄介な
年だな・・・」
水戸市内を越して東を見ると、太平洋が見える。
海は腐敗しているのかも知れない。菰野の涼しげな目元に蜘蛛が登っている。


山下の吐いた煙草の煙は、死臭に似た匂いを拒否するように、
室内から出ようとしなかった。