箱舟が出る港 第二章 二節 難破 一

「消えたと言ってもね、あんた、幽霊じゃないんだから、馬鹿な事言いな
さんなって!!」
茨城県警水戸中央警察署の鬼頭堅司警部は苛立っていた。
「何度も申し上げているように事実なのです。宜しいですか、お耳が遠くお弱い
ようなのでもう一度申し上げます。今度はよくお聞きください!!」
事務長が君になり、そして、あんた、だ。
―――この野郎!
伏見実事務長も負けてはいなかった。売り言葉に買い言葉である、わざと声を
上げた。
苛立っているのはこちらも同じだ。警察は何度も同じ事を聞くのも職務であるが、
実に粘っこい。呆れた。 職務に忠実と言えばそれまでだが、異常な執念が
感じられる。
「消えたんですよ! それ以外表現のしようがありませんな!! 聞こえま
したか !?」
伏見の血管は大波のように満ち引きが激しく、怒りとも不安とも知れない混沌に、
顔が青ざめたり、真っ赤に染まったりの繰り返しであった。
G重力。戦闘機にかかるのは約、6と言われる。
訓練の空中戦時は平均してこの数字である。体力は摩耗し、精神は限りない
ストレスを受け、機体は軋み、兵装やレーダーは制限を受けるという。質は違うが
実戦レベルの疲れを対応の中から伏見は感じていた。
前身は航空自衛隊の戦闘機乗り。同じ公務員である。拳が固く握られている。



「いいかね、我々は110番を受けてから、三分でここに到着した。同時に非常線
も張っている。所轄の捜査員を総動員した。蟻も洩らさない検問だ。院内もあら
ゆるところを探した。巨大な病院の中だが俺はどこに何があるか全部覚えちま
ったよ。だが、何の手かがリも掴めない!! ならばだ、結論はひとつしかないな。
あんた達が組織ぐるみで何かを企んでいるとしか考えられんな!?」
「何だってぇ! 企むだと? いい加減にしろよ。ウソなど吐く理由などどこに
あるっ、事実を言っているまでだ!! 」
「こんな時代だ、何でもありさ。例として申しあげる。子供の人身売買や臓器
売買などは海外ではいくらでもあるんだよ!!」
「それを常央大病院が行ったと言うのかっ。馬鹿馬鹿しい!! 
いくら警察とは言え火の粉を振りかけるような発言は謹んでもらおう!!」
「例だと俺は言ってる。こんな時代でも一瞬で消えるなどの例はひとつもな
いっ!!。可能性としてだ、あんたの言う消滅とやらよりは遥かに現実性が高いと
は思わんか、え? 確かに保育室の録画は見せて貰ったよ。だが映像の合成技術
もな、本物と変わりがないものが作れる時代らしいゃないか、あ?」
「尋問をするような発言は辞めろっ!! まともじゃないぞ、捜査令状を
持って来い!!」
「さて、どっちがまともかね? ところでここの責任者は友重さんとか言ったな。
まだ終わらんのか。くだらん教授会とやらは?」
「まだだ。病院側も消えた理由を必死で探しているんだっ!!」
「けっ、今夜は任意だ、本部に一旦帰る!! 我々は誘拐の線が殆ど無くなった今、
明日からでもあんたがたを徹底的に対象にするぞ!!」
「おうよ! 出来るものならやってみろい。恥をかくことになるぞ!!」



「ちっ、病院って所は厄介でいかんな!! これだけの大病院にも関わらずたった
一箇所だけだ!!」
怒鳴るつもりは無かった。伏見への対応は度が過ぎていたかも知れない。  
事実を釣るのは生餌でなくてはならない、今夜の俺はワームだった。
疑似餌では闇を切り裂けない、
ゲームではないのだ。
―――どうしたというんだ、成美。待ってろよ!! 
妻の笑顔を特効薬にすると、紅潮していた顔が、玄関を出新鮮な空気も手伝っ
てか、夜風にあたり序々に溶け出して行った。
「何ですか警部、一箇所って?」
若い刑事が失礼します、と言ってポケットからライターを出し、鬼頭の煙草に火を
つけた。
「それだよ、田部井‥・喫煙所が一箇所しかない、お前、気がつかなかった
のかぃ? 」
「冗談じゃありませんよ、赤ん坊を探す事しか頭にありませんでした。ガラス張
りのそれらしい場所は見たけど、人はいなかった程度の認識ですよ。大きすぎ
ます、この病院は」
「まあ、な。明日にでも県警本部から応援に来る。が・・・だ。トイレが35、内、
便器一器に故障あり、治療室49、内白壁が33、残りはベージュ7、ホワイト
ピンク9。売店のレジ下に一円玉が落ちてた。第一保育室のベットの下に‥・」
「もっ、もういいですよ、警部。すいません。・‥経験不足です‥・」


―――――


慌てた若い刑事は黙り込んでしまった。
「ま、いいさ。明日もある。あそこにベンチがあるな。ちょっと座ろうか」
白い巨塔か、そんなドラマがあったなと、振り向き鬼頭は病院を見上げた。
―――いったい何があったんだ成美よ。でもな、今は駆けつける事も出来んよ
通用門の向こうに五人の制服の警官が立っていた。二人を認めると敬礼をした。
今夜は厳戒態勢を敷いている。
いい月だと互いに呟いて、ベンチに座ろうとしたその時だった。
ふいに鬼頭は髪を軽く引っ張られる感触を知った。木に引っかかったかと上を
向いたが、頭上に枝などは無かった。
―――お?・・おっ・おおっ!?
その頑健そうな太い膝ががくりと傾いた。瞬間強烈な光が鬼頭の脳裏を襲った。
―――ハッ?・・・・グエッ!! 痛い。
胸に手を当てると、ようやくの思いでベンチに座った。
次に来たのは、心臓の痛みだ。幾本もの針を打ち込まれたような、
細かく鋭い痛みだった。
グッ‥ウ‥ハ‥ハアッ!!・・・
「ど・・・どうしましたっ! 警部!、警部 !?」
田部井刑事が倒れ掛かる鬼頭を支えた。
「おーいっ! 来てくれ来てくれ、早くっ、早くだっ!!」
何があったのかと制服の警官が慌てて走っている。
鬼頭は見た。
生まれてから今までの人生の全てを走馬灯のように。
星空がスクリーンとなっていた。
―――どうしてだ? 俺にはまだ一杯時間があったはずだ


グッ!!


心臓が停止したのを知った。


鬼頭が見た最後の風景は、満月に飛ぶ自分であった。