箱舟が出る港 第二章 一節 波浪 五

―――ばあさんや今日も生きてしまったよ
仏壇に線香を捧げ、手を合わせた。
紫煙は六畳二間の空間を一瞬立ち止まったに過ぎず、少なくない壁穴の
外に陰没して行った。仲間が恋しいのかも知れない。
花火の音があちこちで聞こえていた。仲間の呼び声のように。
何故か「夏」には煙が多い。
人の残した残像のようにと。


仏壇の線香は祈り、蚊取り線香は駆逐、そして線香花火が郷愁であり、
異種ではあるがいつしか示し合わせたように夏に堕ち合い、未知なる誰かに
招かれたように、振られた手に魅了されたように、集合の淡墨として約束の地に
流れて行くように見えた。


「京平よ、今日は泊まっていきな。汚い家だが、布団くらいありゃあな」
濃人権市が仏壇を離れ、色あせたテーブルにに寄り、座った。
「ああ、そうすっペや、漁は明日休みだ、今日は楽しかったよ、権さん
ああ、五平さんもたいした事でなくってホント良かったなぁ」
笹島京平の顔は真っ赤だ。いつもなら目が据わるのだが、今夜は違う。
既に二人で二升は空けているが、殆ど京平が飲んだとも同じだ。
権ジィの家に入る前に、三件の居酒屋を徘徊して来ての、二升である。
―――はて、この野郎め、こんなに飲めたっけかな?
さすがに年寄りの方は疲れてしまっているようだ。記憶を引っ張る事は、
断念した。
「しかし何だな‥まだ生きているべ、たまげたヤツだ‥こんやろうめ‥・
オレの方が先に参っちまうわ‥」
権ジィが呟くと京平もポコポコと酸素の音がする水槽に視線を移した。
川の熱帯魚ディスカスは弱るどころか、さも当たり前のような、涼しげな顔
をして泳いでいた。
海水である。


「器用な魚だな、真水でも海水でも、生きていやがるってか。ヤツはどんな
役目を持ってこの世に生まれたんだっぺか‥・?」
声が聞こえたように、魚は曖昧模糊とした汚れた水槽の中から、二人を凝視
していた。
京平は横になって権市と水槽を交互に見つめた。
「どんな目的と来たか?はは‥高尚な事を言うな、おめえらしくもねえ、
いったいどうした、ああん?」
「権さんよぉ、おらぁ、ホント今日は嬉しかったよ、漁協のみんなも自分の
事のように喜んでくれたっけなぁ、おらぁ涙が出たよ、けどなぁ、何かが足りねえ
んだ。何だろうな、つって今までずっと考えていたがよぉ‥・
それがやっと分かったよ」
「ふん‥・そりゃ家庭だっべ、ニョウボ、子供だな?」
「おおうっ、よっ、良く分かったな!そうなんだ! さすが権さんだ!!居酒屋で
ふと思ったんだ。酔えないオレはな。誰の為に働いているのかと、・‥その‥・
よう?‥ちいとばかり疑問が残った。で、だな、オレの為じゃないと、ヤツが、
ディスカスとかが問いかけて来たよ。・‥今後オレは何もいらねえよ。
オレの為のゼニなんか一円もいらねえ。多分一生この思いは変わらねえと思う、
間違っているか?」
「変ったな、おめえ。まちがっちゃいねえよ、京平、そのとおりだ。
おめえは乱暴で馬鹿だがやはりいい男だ。いいか、世の中にはなぁ、いい加減な
男が多すぎるべ。弱い女子供を泣かせているヤツラのなんと多い事か。
男としての矜持は、捨てちゃいけねえ。女子供を守るという矜持だ。
ゼニはなぁ京平よぉ、おめぇの言う通り、自分の為に使っちゃいけねえんだ。
費途はひとつしかねぇ。ニョウボ子供の為に使って、初めて付加価値つう
もんが生まれるもんだ。つまりだ、一生懸命男が稼いだゼニをよう、
家庭の為に使えば、何倍も男の所へ帰って来るってもんだ」
「キョウジ‥・フカカチ?‥何だいそりゃ? 難しいことを言うなよ、
権さん。おりゃあ中学もまともに出てねえんだぜ‥・。でも‥・なんとなく
解るよ。で、あんなにバ様を大事にした権さんが、何でこんな潰れそうな家に
住んでいる。あんなにバ様を大切にしたあんただろが、したらゼニ
が‥・?」


柴扉を抜けると、これまた弧棲の身である権市である。

「いっぺえあるはずだ、と言いてえんだろう。だがオラは漁協の役員、監事を
やらして貰っている。つまるところ陰徳だっぺ」
「‥・イントク?ああこれだもんなぁ‥・またそんな。まあ、いいか。・‥役員
だが無給だと聞いているぜ?」
「おめえ、いくつになった?」
「27だ。前にも言ったっぺよ、忘れたか?」
「そうか。ちと若いな。ホントの価値を知るのは少し早いのかもしんねぇな、
で、どうだ。寝る前にちょっと星でも見てみんか?」
「おう、オレは出来たら浜に寝たいと思っていた。・‥月とか星を見ながらだ
‥・権さん、あんたはいつもひとり、身寄りがねえ。寂しいと思ってよう‥・」
「そうかい、これも陰徳だなぁ‥・今日からおめえはオレの孫になれ‥・な?
じ様と思ってええよ」
「あのなぁ‥・とっくに思っていたっぺ‥・。オラも身寄りがねえ。いつも
見てくれてたもんなぁ、オラを・・・」


酔いは関係ない。大粒の涙が京平から流れた。それ以上言葉が出なかった。



仏壇の写真が二人を見つめていた。