箱舟が出る港 第二章 二節 難破 二

ヤ二デバの目の前に獲物がいた。
腹がへった。今度は小物だが、若いようで、実に美味そうである。
仲間も食料を、追っている。大きな口を開けて、空腹を満たすため
追いまわしている。
ヤニデバは獲物を前にして、一瞬迷った。なぜか分らないが躊躇するのは
初めての事であった。
仕組みを忘れたか、代償は ? との遠い記憶の声を聞いた気がしたのだ。
古いふるい思い出の生活のようである。
―――仕組みとは、代償とは何だったかな? 
何かと交換だよと続けたの声の主、あれは誰だったのか? ずっと以前に
ヤニテバの近くにいた気がする。
食べるには、少し、迷った。
声の主のが正しそうな気はしたが決定的なものがない。
罰を受けそうな気がするが。
  


戦いの連続であった、食べられそうになった事は数えきれないほどある。
その度に逃げた。追ってくるヤツはたいてい自分よりも大きかった。
ヤニデバも自分より小さいヤツを追っていた。小さいヤツは岩陰に隠れた。
常套手段である事を知っている。ここで待てばいい。その内に顔を出すのだ。
いつまでも隠れているような気長なヤツでは無かった。
薄い陽光が辺りを照らしていた。
やがて二つの丸い目玉が現れた。
躊躇はしていたが、空腹である。また食わねばヤニデバ自身明日が無い
かも知れない。弱肉強食の世界なのだ。
岩陰から出たヤツの背後を確認すると、ヤニテバの口が大きく開いた。
後ろから思い切り吸い込んだ。
捕らわれたヤツはなんとか逃れようと、体をクネクネと必死に動かしている。
腹が満腹になる充実感はもう直ぐ実感出来る。
ヤツの体はヤニテバの大きな口に半分程飲み込まれていた。もう動く気配が
ない。
―――ダメだよ
また何者かが囁いた。
何だと ?
丸い目玉で四方を見渡した。
透明な水の中に牛乳を入れたように、ゆっくりと踊りながら乳白色の何かが
迫っていた。
やがてヤニデバの体を包むように、一点から拡散した白っぽいものが迫って
来た。
視界はすっぽりとその色に染まってしまった。
ヤニデバは夢から覚めたように、動きを止めた。
―――ああ、そうだったのだ!
こんな毎日ではなかったのだ!!
捕らえたあわれなヤツを離した。ヤツは自由を得、水面に向かい泳いで行った。
泳ぎ方が古い昔と同じになった。
見ると仲間も同じように捕らえた獲物を離していた。
追ってくるべき大きなヤツラも直ぐ近く居た。ヤニデバを確認したようだった。
―――多分大丈夫だろう
思った通りであった。隣を優雅に泳いで挨拶するように行き去った。
獰猛さのかけらもない。
大きな者から、小さな者まで、今やそれぞれを追い、逃げる事を辞めていた。
時間が止まっていた。
大きな橋を飛び越える時間の為にである。
それは着慣れた衣を脱ぎ捨てて、新たな旅立ちに向かう、異種の仲間の
決断を意味していた大いなる時間だった。
―――飛ぼう、着地点は前か後ろか知らないけれど。


同調である。ある種の進化だろうか。それとも過去の崇高な生命体に先祖帰り
したのだろうか。
まず家を作ろうとヤニデバは思った。気づいたのだ。思い出したのだ。
長い長い眠りであったが黎明の橋を超えた。
―――それでいいんだ、継ぎたまえ遠い所から声が聞こえる。
空間が乳白色で一杯であった。
―――継ぎたまえ、交代である。次を担いたまえ、そこが痛むのだ

 


未明の濃霧が、蛍光灯の灯りをぼんやりと置き去りにするのは、何も屋外
だけではない。
「出生順でございます。布施順子、夫、譲次。 同様に飛田篤子、健一郎。
坂井美奈、広和。湯原絵里、亮。早田綾香、秀樹。勝又ゆかり、祐司。
谷脇燐子、勇。生田目澄香、和彦。藤田あゆみ、光一。増渕雪絵、翔。
剣持順子、正和。堀江徳枝、啓之。鬼頭成美、堅司。蔵辻さやか、翼。
玉水直子、太陽。藤原聖子、深山。小田林葉子、正人。山本はるひ、睦。
江尻麻衣子、彰。吉村綾乃、孝義。我妻ひろみ、統一郎。蒲生琴美、太郎。
定成奈々、譲二。西田けい、孝也。岡本明奈、和男。米山千鶴、慶彦。
船場ひろこ、新太郎。東郷ちずる、功・・・以上23名の夫婦の子が
消えました」
友重が腑抜けた顔をして発表していた。
「常大病院では異常な出生率だね ? 23人もの子供が生まれたと言うのは」
統計学の教授が鋭い目を友重に放った。
「そうですな‥・一日の出生としたら、この病院始まって以来の記録のはず
です。ちなみに約2300名だったか、これはある開業医の年間の記録ですが、
全国一です。」
「一日に換算すると6.3名、約4倍か‥少子化が叫ばれているが?」
統計学が隣の社会学の教授の肩を叩いた。
「丸の内公園の事件を聞きましたか? 武道館です。15000名もの観衆が
クリスタル★ジェネレートなるバンドのコンサートを観ていたとの事です。
そこで‥・」
「あの世紀の大破廉恥事件が発生した。‥世も末だな」
風邪気味の声は体育学部長で、重しをかぶせる如く太い腕を組んだ。
「そうです、思うに正に世の末なのです。常軌を逸しております。
ご存知のように、因果があるのか、23名の夫婦の内坂井広和、及び谷脇勇の
両氏が本日心臓麻痺で死亡しました、遺憾です。推測ですが不安があるので
はないでしょうか? 例えば自らの滅びへの不安です。種を残そうとする本能
がそうさせたと。根拠があるのです。私事で申し訳ありませんが、あえてお話
致しましょう。その、妻の性欲が異常なのです。私は疲れていますが、意に反し
て要求に屈してしまうのです。恥ずかしい話ですが、妻も私もどちらかと言えば
淡白なはずでした」 
社会学がハンカチで汗を拭いつつ、置き所のない遠い眼の、安楽の地を探して
いる。


半分は黙っていた。青年、及び壮年の教授達である。自身にも覚えがある事を
物語っているような沈黙であった。
「不安か滅びか異常性欲か、それもいいだろうが私自身にはそんな感情はな
いよ」
67歳の体育学部長が眉根に立皺を刻み社会学を睨んだ。
「そんな事は後で論議しましょう、先ずは子供が消えた原因を突き止めなければ
ならない。学長の話を聞こうではありませんか!」
太田垣が叫んだ。
67名の教授が居る。時間を無駄に費やす事は出来ない。増してや今は冷静さが
第一に求められている。論点をひとつに絞らなければならない。
「おっ? 君は助教授のはずじゃなかったかね !それと隣のふたり、山下助教
がどうしてここに居る? それと左は菰野助教授だったね!!」
「良いんだ、経済学部長、彼たちは私が呼んだ。さて、そろそろ良いだろう。
今回の顛末をお話しよう、大林君、データを流せ‥・」
中央の席から市島が身を乗り出し立ち上り、秘書の大林に指示した。
「議事録は良いのですか、学長」
細かい経済学部長が慌てた。証拠を作る面倒な代物だ。
「良いんだよ、極秘となるからな。君たちを信用している。覚悟して聞いて
欲しい」
―――顛末だと? 極秘だと!? 高月を含めた不可解な現象の源を全て知ってい
ると言いたいのか?
太田垣はため息を洩らした。隠していた事になる。山下の証言は本当だった。
教授達のノートパソコンに「消滅」前後のデジタル画像が流されようとしている。
一斉に市島の顔を見つめた。


「画像を見ながら私の話を聞いてくれたまえ。事は昭和二十年に遡る」
何だと!? 今何と学長は言ったのだ!!
昭和二十年!?
ざわざわと会議室が揺れ、密室のような部屋の中に驚愕の声が木霊した。
どういう事かと、太田垣と菰野はお互いに顔を見つめていた。


山下だけは何も言わず、取り出したメモをしきりに見つめていた