箱舟が出る港 第二章 二節 難破 五

外道ギル

粗い壁 二三のくわき

とある農家の庭できいた 蝿の羽音

ああ あのものうい 音楽 思い出の沖の潮騒

さては耳鳴り アンヴイタシオン・オ・ヴオアヤアジュ

〜三好 達治〜





昨夜見た海蛇に飲まれる光景は半分記憶の彼方に消えていた。
とにかく支度だけは出来た。

未明の海岸。
ただし灯りはある。暗くはない。漁港だからだ。
皆藤会長の指示により、常盤製薬財務部長雨貝元春は、釣りにやって来た。
時計を見た。
午前4時。
いつもこの時間なら、結構人がいるはずだ。
今日は誰もいないようだ。もっとも平日だからかも知れない。
特に気になるものは見つからなかった。


漁港近くの駐車場に車を止めた。
トランクから道具を出し、目指す岩礁を見つめた。
白いテントが張っている。
釣り人でろうと雨貝は思った。
周りを見た。
大型トラックがエンジンをふかしている。
それは北海道から昨夜フェリーでやってきた運ちゃんが中で寝ているのだろう。
同じようなトラックが何台もあった。
老人が犬を連れ、町並みに姿を消しつつあった。
雨貝を監視している者はどこにもいない。
殺気たるや感じられないが、まだ夢の半分を忘れてはいない。


そこよりも高いこちらからはよく見える。
岸頭の岩陰に複数の男が固まり星型に浮いていた。
五、六人いる。こらした目は六名と認識した。
意思が統一されているのだろうか、六名人併せて恰もヒトデにも似た形を
作り沖籍している。
一点に全員が頭を向け、顔を水面に没し、ゆらゆらと展開し浮かんでいた。
ゴーグルをしているのか解らないが、全員で何かを観察しているように見えた。
雨貝は怪訝に思った。
まるで高空からダイビングし、お互い手を合わせ降下するような格好でもあった。
おかしな遊びをするものだ、と対岸を見ながらコマセをまいた。
釣りをする振りをする事が今日の仕事であった。
そしてやがて出てくる何かを見る為に。

コの字型の対岸までは百メートル近くある。
入江の対岸は岩礁であった。
真っ黒だ、五人とも黒いウェットスーツを着ているようである。
上りつつ朝日が立ち上り、水平線の彼方からそれを照射していた。
・・・・ま、あそこは浅瀬の事だ、遊んでいるのだろう。
ヤスで蛸やカサゴなどを突いて遊んでいる者もを何度も見ている。
竿を対岸に向かい、えいやっ、と振った。
狙ったポイントはほぼ中間、五十メートル先であったが、キャスティングミスだ。
まあ、いい。
目指すはあの辺りだから。
六人の近くに重りがボッと落ち波紋が流れた。
その時だった。
大きな黒い何かが、湯気のようにゆわりと一斉に六人から立ち上った。

これだっ! 恐らく会長はこれを見ろと!!
仰天し対岸に走った。
三台のメルスデスベンツが無造作に止まっている。
高級車を潮にまともに当てるとは金持ちなのだろう。
大宮ナンバーのベンツだった。
湯気はトグロを巻くように、四方八方へと散開している。
おおっ、これは・・・これは・・・蝿だ!!
何千何万とも知れぬ蝿の大群が、飛蝗さながらに、蛇の形になり空へ上って
行く。
ウェットスーツかと思った黒は、ああ....すさまじい数の蝿であったのだ。
六人の体はほぼ食べ尽くされようとしていた。
雨貝は手にした、たも網の柄をこなくそっ、ちくしょうと一体に未だ群がって
いる未練がましい蝿を振り払ろうとする。
六人の白い背骨が動いていた。
ああっ、背骨がっ!!
岩礁にTシャツや下着の類が脱ぎ散らかしているように引っかかっていた。
男ものの衣類に交じって、女性のものもあるようだ。
全裸で潜っていた。もしくは落ちたのである。
酒でも飲んで溺れたか?
六 人の男女かと雨貝は岩を降りた。


よく見ると、背骨の部分に夥しい蛆虫が取り憑いている。
ひとつの死体が波の影響だろう、プカリと体を反転させた。
頭部から、足先までびっしりと蛆虫に覆われていた。
蛆虫はごもごもとおぞましくゆっくりと動いている。
無我夢中で柄を振り回した。
蛆虫はなかなか離れない、おそらくその下に骨があるのだろう。
一匹の蛆虫が急に大きくなった気がした。
こっちをじっと見た気がした。
やめろ、やめないと次はお前だぞ・・・との声が聞こえた気がした。
今にも食いつかれそうな危険を感じた。
体を悪寒が駆け巡る。
・・・ああっ・・・おう? ・・・ ああっ・・・ああああああ!!
雨貝は絶叫した。
―――しかし、誰にも言うわけには行かない。
だけど限界だった。
絶叫を放つ口を覆いながらたも網を投げ出して逃げ去った。







大西洋アゾレス諸島
リスボンのマフィアのボスが、クルーザーデッキで体を焼いていた。
ビキニ姿の女がマティーニを持ってサロンから上がって来た。
ボスはマティーニを取り、飲みながら、相変わらず空を見ていた。
雲が流れて行く様を静かに見ていた。
はぐれ雲のようなちいさな塊が見えた。
全くの丸型である。
さっきから気になってしかたがない。
風が少しあるはずだ、他の雲はさまざまな形に身を変え流れて行く。
丸い雲だけが形を変えず、丸いまま大きくなっている。
どんどんとこっちにやって来る。
最初はビー玉程度の大きさだった。
それが今やゴルフボールのように成長し、よく見ると銀色である事が
見とれた。
もはや雲などの自然現象でない事ははっきりとしていた。
どうも変な物体だ、これは正体を突き止めようじゃないか。
おい! とボスが大声で手下を呼んだ。
三人の男とさっきのビキニの女がデッキに上がって来た。
「どうしました、ボス?」
手下の中の兄貴格が聞いた。
「あれを見ろ、なんだありゃ?」
「?・・・はい、風船で?しょうかね?」自信がないように物体を見上げた。
「気球じゃないの?」とは陽を遮るように手を額に置く女。
「もしかしてUFOではありませんか?」と一番下っ端が答えた。
「バカッUFOなどいるもんか。あれはなんかの観測装置だ」とサングラスの
手下が言う。
ボスはビーチチェアから立ち上がった。
「丁度いい、コルシカ島から買ったマシンガンを試してみよう」と残忍な顔を
して笑った。
「人が乗っていたらどうするんですか?」
「馬鹿やろう、あんな丸っこいものに人が乗っているかってんだ。だいいち
人が乗るにゃあ小さ過ぎる、アホウ! さ、とっととマシンガンを四丁もって
来い。性能を試すには格好のターゲットだぜ!!」

物体は重量感があるように見えるのにも関わらず、つつつ、とすべるように
軽く移動している。すでにバレーボール大になり、ほぼ頭上に居る。距離にして
約百メートル。
四人は銀色の球体にマシンガンの照準を定めた。女がそれを見ている。
「今だっ!!」
ボスが叫んだ。
「打てっ!!」」
ドガガガガ! ドッ! ドガガガ!!、ドン!!
四丁のマシンガンが一斉に火が吹いた。
瞬間四人は目も開けられない程の強烈な光を見た。
目が熱いっ、焼ける!!
目を最初に光りは電流のように四人の体中を一瞬のうちに駆け巡った。
ギャーッ!!
四人は倒れた。体のいたるところから煙が出ていた。
女はボスを抱き起こそうとしたが、死んでいる事を悟った。
目はそれよりも物体の姿を追いたかったようだった。
いつの間にか物体に穴が開いている。
バレーボールほどの大きさの物体に、ビー玉ほどの大きさの穴が等間隔で
無数に開いている。
その穴から白いものが放出されているのだ。
噴水の如くこの大西洋に放出されているのだ。
これは....? これは....!!
女は思った。
女だから思える直感があった。

「スペルマの色だわ、香りだわ....」
死亡した四人に目を向ける事もなく女は物体を憑かれたように観ていた。