箱舟が出る港 第二章 二節 難破  四

精神はすでに限界に来ていた。
男の子だった。
自らの子宮から出た我が子ではあるが、神様が与えてくれたはずだった。
抱いた感触が今でも小さく、暖かく、剣持順子の手に残っていた。
‥神様、ありがとう‥
看護婦に抱かれ保育室へ連れられていくわが子の背中に、バイバイ、と
手を振った。
安堵した彼女は、直ぐに眠りについた。そして夢を見た。


幼稚園、小学校、高校、大学、就職と成長していく姿が夢の中に現れては
消えた。
ママ、と我が子は成人になるまで、順子を呼んでいた。
なあに?と振り返った時、海が見えた。
どこかの港のようだった。
ママ今までありがとう....さよならと我が子が海の中に入っていった。
その時目覚めたのである。
おかしな夢を見たものだ、と体を起こした。
ブラインドの間から盗むように秋の猛烈な太陽がじりじりと順子の顔を照らして
いた。
‥いやだわ、また今日も暑いのね‥そう呟いた。


時計を見た。
午後一時半を回ったところであった。
‥こんなに眠っていたのかと驚いた。それもそのはずであろう。
死にたいくらいの痛みを乗り越えた後の体なのだから、相当なるエネルギーを
費消したはずである。
安い給料の夫が無理に宛がってくれた特別室には、誰も居なかった。
あれ?と順子は思った。
夫が居ない、父も母も医師も看護婦の姿も無い。
予期していた初出産の憧憬、それは昨夜生まれた赤ちゃんと順子を心配し、
少なくても順子に関係する肉親が揃っていなければならなかった。
‥ご苦労様‥と眠りからむ覚めた順子を優しく微笑んでくれるはずだった。
しかし特別室には誰もいない。
そうか、赤ちゃんの部屋にいるんだわ‥。
ブザーを押してくれって言ってたっけ‥まあいいか。
順子は立ち上がった。少し下腹部が痛いが、全く気にならなかった。
パジャマを正してドアを開けた。



看護婦が職員が右往左往している姿が見えた。
何これ?
順子は心配になった。
大事故でもあったのかな‥と思った。
しかしここは婦人科フロアである事を思い出した。
例えば大きな交通事故とかの患者が運ばれるフロアでは無いのだ。
右手を強く引っ張る者が居た。
主任看護婦の森田久美枝であった。
「森田さん、色々お世話に‥」
「剣持さん! ふらふらしない? 歩ける? ‥大丈夫ね? 直ぐ来て!!」
グイと強引にその手を引っ張られた。
いったいどうしたのだろうか‥体が安定しない事を知っているのは順子以外、
医師と看護婦しか知らない。その看護婦が強引とも思える強い力で引っ張る
のだ。
「どうしたの、森田さん?」
「いいから、黙って、深呼吸して、思い切りしてよ!」
保育室のドアが開かれた。


「冗談でしょ‥これ?」


説明は昨夜聞いていた。
―――目覚めたら体温を測りますよお‥ベットの脇のそのボタンを押してね、
そうそうそこ。終わったら改めてご対面よ。保育室へ行こうね。ああ、それとね、
昨日剣持さんを始め23人の赤ちゃんが生まれたのよ。病院始まって以来の快挙
だわ、一日でこれだけの命が誕生したのは。友重先生から言われたわ、花束を
渡すようにって。明日ここで渡すね。みんなでお祝いしようね―――



保育室には誰も居なかった。
順子が期待していた者は誰も居なかったのである。
陰陰とした空気が順子の気持ちを激しく揺さぶっていた。
居たのは友重教授とスーツを纏った鋭い眼のふたり、そして三名の警察官だけで
あった。
「何これ、どうしてお巡りさんがこんな所にいるのよ? 私の子は、どこ? 」
「剣持さん、も一度深呼吸、いいわね、よく聞いて、大丈夫ね?」
理解が出来なかった。
何故か警察がいる。警察は順子を一瞥し、ペコリと頭を垂れた。
冷たいものが首筋を流れた。
「子供は、子供たちは、どうしたの、どうしたと言うのよ、冗談でしょう?」
正方形の三十畳ほどある保育室の中のベットには期待していたものは居なか
った。
保育器が抽象画のように順子の網膜の中を混沌とさせていた。
「全員消えてしまったのです‥」
森田主任看護婦が床に崩れ落ち、号泣を放った。
「私達、二十四時間体制で赤ちゃんを監視していましたっ。ですが、
ですが....消えてしまったのです!!」
「消えたって、森田さん...変な冗談は止してよ!! 違う場所に移したんで
しょう? ねえっ!!」
訳がわからなかった。
ここは今頃祝福で溢れていたはずだ。警察などがいる部屋ではないのだ。
「....探しています、落ち着いて下さい、奥さん。」
三十代後半に見えるスーツ姿の男が順子を宥めた。
「皆さんは七階の会議室にいらっしゃいます。ご主人とご両親もそこにいます。
他の捜査員が事情を聞いております、ご足労頂くけませんか。」



それから三日が経過していた。
依然として我が子には会えなかった。
消えた....とは何だろう。誘拐でもされたと言うのか?殆ど眠れない三日間で
あった。
与えられたサイレースソラナックスは愁睡を呼ぶだけであり辛うじて精神の
均衡を保っていたが、さらなる悲劇が順子を待ってた。



「大変よ、順子!!  正和さんが、心臓発作で今倒れたのよっ!! 疲れだろうと
お医者さんは言ってたけど、深刻な顔をしていたわ....今は言うべきで
はないとわかっていたけど・・・」
泣きそう な顔をした母親が息を切らして順子に抱きついた。
「気持ちを大きく持つのよ....赤ちゃんも何かの理由で病院にいるのよ.....」
「....居ないわ....赤ちゃんは海に行ってしまったのよ。もう帰らないわ.....」
「あんた、なんて事言うの....」
「正和さんももう直ぐ死ぬわ....わたし、海に言って見たい..........」
「なんだってっ?、ばかっ!!」母親は平手で順子の頬を叩いた。