箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 三

より蒸し暑い、深夜であった。
クーラーの調節を変えようと、大介はロッキングチェアから物憂げに
立ち上がった。
設定を20度にしているが、体感温度は、この七月まで投げていた、
あの真夏の陽炎揺れる、グラウンドより高い。
郡司大介は、常央大付属大洗高校野球部の三年生、元エース。
三年生の引退試合は二日前に終わっていた。
小糸真理が帰ってから、すでに一時間半になる。
15度に設定し、乱れたシングルベッドに横たわり、
真理との時間を振り返った。


精も根も、もはや、尽き果てていた。
もう直ぐ18歳になる大介であるが、顔に死相が見える。
あの武道館、....クリスタル★ジェネレートのコンサート。
媚薬でも無理やり飲まされたような、女達の痴態。
はじまりは、それからだった。
夜毎訪ねて来る真理は、何度もSEXをねだった。
拒否しようとすると、大声で騒ぐ、泣く。
来るなと言っても、堂々と忍び込む。
離れに住む家族に気づかれたら、たまったものではない。
ましてや、在京球団がドラフトで狙う、逸材でもあるのだ。
大事になったら、後輩や監督に申し訳ない。
今時の高校生にしては、律儀で真面目な大介であった。


裏ビデオ、DVDで見た女性は、殆どが大人だった。
あんな喘ぎをするのかと、アダルトで、女と言う生き物の
平均値を探り出しはした。
ところが、真理の喘ぎは、想像に絶するものだった。
慌てて真理の口を塞いだ数は、数え切れない。
優しく迎合しているのは、陰茎だけだ。
200球を全力で投じても、あの域の疲労までは辿りつかない
はずである。
もはや、何回も死んだ気がする。
尋常でない。何かに盗り付かれたような、寒気のするたち
の悪い寄生虫のような、17歳の真理あった。
....急いでいる。
結論であった。
真理は急いでいる。
だとすれば、何を急いでいると言うのか?
急がせているものは、恐らく交差点で見る坊主だろうと、
天井の染みをぼんやりと、見つめた。
染みは、墓の形に見える。
坊主が奏でる、読経と鐘の音は、何故か今夜は聞こえない。



何かが回る音が、窓の外から聞こえた。
耳を澄ませば、それは車輪の音のようでもある。
聞きなれた、自動車やバイク、自転車のタイヤが回る音
ではなかった。エンジンの音も聞こえない、ただ車輪が
回る、およそ人間界臭くない回転音であった。
大介はよろよろと立ち上がった。
物憂げに、窓の鍵を外し、開けた。



部屋の外は辺り一面漆黒の海だった。
大介の生誕を祝っての記念樹、見慣れた棕櫚の木が見えない。
街の明かりなど、何一つ見えなかった。

.......!!

動悸が高まった。
危険がある事を、本能が知らせている。
早く窓を閉めろ、そう怒鳴っている。
だが窓を閉めようと、ナイフを持とうと、阻止する事は叶わない
事を一方の本能が諭した。
本能たる心はいつも二つある。それは善と悪である。
冷静にコーナーワークを突く、時速148キロの投球技術。
邪な心では、そこを丹念に突けないのだ。
信じられる自らの眸で、彼を悩ませたここ一ヶ月弱の不可解
な日々を演出する者の姿を、見極めようと思った。
元々度胸のある少年ではあったが、
死を覚悟したと言う事だろう。



火が燃えていた。
火炎の中から、自動車のような物が朧と浮き上がった。
大時代じみた格好をしている。
近づいたそれは、平安時代の籠のような形をしている。
引いているのは、牛のような影である。
車輪が在るべき四つの場所は、火がくるくると回っていた。
御者らしい薄い影が見えた。
水墨画のような、ヘルメットを被ったその御者は、
ある人物に、似ていた。
太平洋戦争中戦死したと言う、写真でしか見た事のない、
祖父であった。
人をあの世に運ぶ、火車なのか?
それとも、おぼろぐるまか?
詳しい知識はないが、聞いた事はあった。
滅びを嗅ぎ付けてやって来ると言う、死神であった。


不思議に怖さは感じられなかった。
...ひい.おじいちゃん、だろ?
....霊界...あの世も戦争状態にあり....若い奴らは、これから
山ほどあの世に送られるだろうよ...
...何の事なんだ、ひいおじいちゃん?
...向こうへ行って戦うのだよ....善も悪も、このままでは、
潰れてしまうんじゃ....
....潰れたら、どうなるの....
....見当がつかんわな、...ひ孫よ.....


ふと気がつくと、珍珍亭前の交差点に立って居た。
胸が痛い。
何かに握り潰されるような強烈な痛みであった。
耐え切れず、よろよろと車道に倒れた。
天空には、満月が浮かんでいる。

突然の人間の出現に、グレーの車は急ブレーキを踏んだが、
間に合わない!!

「馬鹿野郎!!」
運転手は目を瞑った。

ドン!!

大きな音がして、飛び出した珍珍亭のマスターが見たものは、
血を流した郡司大介の死体であった。
車に撥ねられる前に俺は死んだ....そして...
今立っているチューブ状の空間の中で、
大介は全てを悟っていた。