箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 二

男が帽子をゆっくりと脱ぐのを、高月美兎は微かな笑みを湛え見つめて
いた。
男は腹部をさかんに気をしているようだ。
ガンジスリバーで食べたと言う、人間の臓物をあらかた吐き出したようだ。
何者かに強烈な打撃を弱点である腹部にお見舞いされたのだ。
その何者かが現れるのは、直ぐのはずである。
せっかくだ、カレの力を見てみよう、美兎は考えていた。
化け物の息遣いが荒い。しかし殺気はより増幅している。
不安定な足場に立った巨大な岩石のように、
見る者の意思を惑わせるような、大きな威圧を醸し出していた。
美兎は静かに制服を脱いだ。


マグネシウムの光りのペンで描いたように、闇に16歳の美兎の輪郭が下書き
のように浮き上がった。
輪郭だけが残り、向こう側は暗い闇であった。
化け物の足に絡んだベルトのバックルであるが、
この暗闇の中では見失った懸念があった。
点滅する蛍光灯は、手入れが行き届いていなかった。
...ここに私も化け物もいるわよ、さあ来て。
下着をも軽やか脱ぎ去ると、美兎の輪郭はより光芒を放った。
髪、頭部、乳房、肩、手、臍、陰毛、長い足、足首が
漆黒の光景から、描かれたようにはっきりと所在を示していた。
手は印を結び、風が巻いたのか、長い髪が揺れている。
微かに潮の匂いがしては、消えていく。
灯台とは、船だけてはなく、潮騒にとっても港であった。
点滅する蛍光灯に止まった我が、場違いな場所と思ったのか、
燐粉を落とし、夜空に消えた。



「一番弱い種族ね、あなた?」
「デモ、ナイゼ、ツキノプリンセスヨ」
「我がしもべたる鯱族、鮫族が戦うまでもない力だわ」
「タトエソウダトシテモ、オマエニハマケナイ。ヤツラハ月カラハ
デラレナイ。サテ、カクゴシテモラオウカ」
「強い人間が追ってきたわ、あなたとまたやるつもりよ、ほら?」
はあ、はあと荒い吐息がして、坊主頭の巨漢が現れた。
「ここに居やがったか、化け物めが! なんなんだてめぇは!?」
知流正吾の格好といったら、それは見られたものではなかった。
ツイードのジャケットの裾を、口で引きちぎったのであろう。
無残に破れていた。引きちぎった糸が口から垂れていた。
引きちぎったジャケットの布を耳に押し込んでいる。
まともではない格好だが、流石は格闘家であった。
超音波対策と思われる。
高月には一瞥もくれなかった。



総理府内閣官房室。
夕闇の紅い陽を受けて、一人の女と七人の男が、円卓を囲み座っていた。
厚生労働大臣 小石 礼子。
内閣官房長官 一藁 力。
民主自由党総務会長 大八木 麓輔。
警察庁警備局長 公文寺 鋭治。
厚生労働省事務次官 織原 茂樹。
国立、東大和医科大学学長 松根 忠勝。
関東信越国税局長 国友 久司。
防衛庁長官 河原崎 照光。 

高根沢の馬鹿はいったい何をやっておるのか...?.」
しわがれた声を絞りだすように、民事党最長老の一藁は、震えた手で
テレビ画面を指した。
キャンプデービッドが女の集団に襲撃され、警護するアメリ海兵隊
全滅したとのニュースは、世界中を駆け巡っていた。
しかもケント.アンダーソン大統領、高根沢雄一郎総理大臣が行方を絶った
との未曾有の驚愕すべき大ニュースであった。
恐らくは女賊に拉致されたのであろうと、CNNは同じ場面を繰り返し繰り
返し放送していた。


官房副長官はどうしたかね?、随行したはずだが....」
大八木はトリネコの木で作られたパイプをトントンと、
テーブルに軽く叩いている。
「外事課の報告では、バミューダ海域に行っていたらしいですね....」
公文寺が首を傾けた。
「....バミューダですか? バカンスのつもりなんでしょうかね!!
それよりも、そもそも、あの別荘地などは、今回の訪米予定の中に、
入って居なかったはずです。日本がこの状況なのに...」
公文寺が苛立った顔で、資料を見つめている。
「国友君...学校法人那珂川学園常央大学...会計検査院が疑問を
持ったという、資金の流れを説明してくれないか....」
ゆわりと立ち上がったのは、幽鬼のような顔を持つ男だった。