箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 七

「君を逮捕する」
公安警察捜査員、蓼科と言う男がしたり顔で、伏見から無造作に
タバコを取り上げた。
尤も本名かどうかは分らない。
公安警察の実態は、不透明そのものだからだ。
自らの戸籍を消してまでも、不穏分子の側に潜り込む。
労基法違反と言うのは不自然だ。馬鹿げている。
残業代を支払わないのは、確かに違法行為である。
しかし、たった一人の職員の一時間程の割り増し賃金
の不払いがあったとしても、逮捕などは間違っても、されない。
まるで漫画の世界の話しである。
...申し訳ありませんでした。是正致し間違った賃金は、
お支払いします...この一言で足りるのだ。
ならばだ...おそらくは観測衛星やまぐもの件と思われる。
別件逮捕だとしても、逮捕されるような事をした覚えはない。
...ま、立小便くらいはしたがな
伏見は苦笑した。



相手は伏見の前身をも掴んでいる。
あの北島はスパイだったのかも知れない。
学卒の青い顔をした眼鏡を思った。
とうとう国家は常央の計画を知ったのか...
一部か全容かは分らない。
伏見にしても聞かされているのは、氷山の一角に過ぎない。
途方もない計画である事をうすうす知ってはいた。
常央に提供したのは、過去の経験から得た戦闘機の
航行技術と、製造技術だけだった。
観測衛星やまぐもに、その技術が取り入れられた事は知っている。.
国は常央の何らかの陰謀を掴んで、それに狙いをつけたに違いない。
伏見はそれ以上の事は何も知らなかった。
....逃げるか
交番には谷と蓼科の他に三名の制服警官がいた。




「逮捕 ? だと。もう一度聞かせてくれよ、容疑は何かね?」
労働基準法違反だといったはずだ」
蓼科は無表情に、自分だけ煙草を吸った。
「証拠はあるのか? 逮捕なら俺ではないだろう。おかしいで
はないか? 俺は常央の経営陣ではない。顧問弁護士を呼んでくれ」
「その必要はない、小島弁護士は常央の顧問を辞めたよ...」
谷が汚い目を向けて苦笑している。
底のない不透明な目だ。
....そうか、そういうつもりなら
「ま、お茶でも飲まんか。簡単な事情を聞きたい」
制服警官がお茶を渡した。
パリンという乾燥した音とともに、茶碗が割れた。
お茶は伏見の手に届かず、谷のズボンの裾を濡らした。
.....野郎
伏見は制服を睨みつけた。
どうにも刑務所へブチ込みたいらしい。
何があるか知らんが、こんな事でブタ箱行きとは納得が出来ぬ。

「加えて公務執行妨害をプレゼントしよう」
蓼科は、ガチャリ、と手錠を取り出した。
「大変だ、そ、外に出て下さい!!」
三人の少年が交番に飛び込んで来たのは、その時だった。
「なんだ、今取り込み中だ。後にしてくれないか?」
一番若い制服が押し戻そうとした。
「いいから、いいから早くっ!!」
制服は引っ張られた。
「空を、空を見て下さい、お巡りさん!!」
仕方なく制服二名が、続いた。



駅前に集まった群衆が、嬌声を上げ空を見上げている。

.....おお!!

百メートルはあるだろう巨大な何かを先頭とし、
続く五十体程の物体が編隊を組んで飛んでいる。
水戸芸術館のライトアップされた光りが、
その姿を捉えつつあった。
そして今、生命体である事が誰の眼にもはっきりと確認出来た。
羽音が聞こえた。強い風も流れた。
三百メートル程の低空で、東に移動している。
「何だ?」
蓼科も交番から出た。
その隙をついて伏見は机を蹴り上げた。
同時に谷の首に手刀を見舞うと、全力で交番から逃げ出した。