箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 八

夢というものは、時として現実になる場合もある。
無慈悲な神は、悪戯心を起こし、境界に立たない事もある。
昼寝でもするかのように、さあどうぞ、とサタンへ手を振り、
思考を一切断絶し、霧のように病葉を布団と消えていく。
継いだサタンの手は、夢を手のヒラに載せ、現実界に放り
投げるのだ。
嘲笑のハーモニーを奏でながら。



足を引っ張るものが、いた。
避暑地のビーチでふざけているのは、最愛の恋人、パトリシアのはず
だった。
よせよ、こら、と岸辺へと歩み出そうとするが、なんとも力が強いのだ。
帰す波のうねりも手伝って、トムは俯けに倒れてしまった。
水深1.3メートル程の浅瀬である。
飛沫が目に入り、コンタクトレンズを攫ってしまった。
バカ、よせったら、よせ!
トムは流石に頭にきた。
悪戯にしては度が過ぎている確乎たる力であった。



パトリシアの手が、両足を掴んで離さない。
蛸のような吸着力に、トムは戦慄を覚えた。
狂ったかパトリシア!
水の中で怒鳴った。
手足を懸命にもがく。
オレンジの空は、ほんの1メートル先にあると言うのに、
返答をくれない。
疲労した体はグレー色の陥溺にふけっているのだ。
...これ以上は、まずい、やはり、まずい...
航海に携わる者にとっては、夢も何よりの娯楽では、ある。
しかしどんなに恐ろしい夢とは知ってはいるものの、
抵抗せねば死が待っているような肌触りが生々しい。
....まさか現実ではあるまいか?
全身にグッと気を入れた。
金縛ったものを解くための常等手段である。
海水のような汗が流れていた。



...ハッ....


やはり夢であった。
ふう、ふうと大きく息を吸いては吐くと、頭を左右に激しく振り、
眼鏡をかけた。
パトリシアの写真が、ベッドから落ちていた。
嫌な夢を見たものだ....



極地調査用砕氷船、グランドステージ号は、南極を目指していた。
トム・ギルバートは一等航海士として、アメリ南極観測隊
運ぶ要として乗り込んでいた。
彼には悩みがあった。
胸痛である。
胸の痛みが日毎に増しては、彼を悩ませていた。
勿論病院で胸部を中心に精密検査を受けたが、肉体的には全く
問題がないと言う。
ストレスによる軽いノイローゼだろうと医者は言った。
処方を飲み、休日にはアドバイス通り、好きな事ばかりをして
過ごして来た。しかし一向に良くならない。



錯覚だった、と教えてくれたのは、夕べ見たオーロラの光で
あった。
見慣れているとはいえ、見る度に大いなる感動を与えてくれる
オーロラであった。
その感動が今回の航海には不思議にも、何故か無かった。
病んでいると思ったのは、オーロラを点々と覆った、光の所在
であった。
己が体が病んでいるのではない。
惑わされてはいけない、とオーロラが語った。
....意味がよく分らんが?
トムは光りに問うた。
...より、もっとよく見なさい、私を....
トムは100倍の双眼鏡を取り出した。


倍率80で、オーロラを蝕むように、神秘の光りを遮る球体が
浮かんでいる事を確認した。