箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 六

午後21.30分を少し過ぎていた。
煙草屋でセブンスターをツーカートン買い込むと、
伏見実は辺りを見回した。
人の嗜好はまちまで、権利がある。
煙草を吸う権利だ。
たが、大学病院の事務長と言う立場からは、あまり勧められた嗜好で
はあるまい。
その辺を伏見は充分に理解していた。
なんともはや、ミジメである。
隠れるようにしてひと箱取り出すと、水戸駅の構内前と、足を勧めた。
百円ライターで火を点けると、後ろから肩を叩く者が居た。


「伏見実さん・・・37歳・・・若いが、常央大学病院事務長だね?」
白髪交じりの角刈りの男が、手帳を取り出した。
「俺は水戸東労働基準監督署、署長の谷と言う」
「労基署 ? ・・・なんだ、やぶからぼうに。何の用だ、この時間?」
勤務帰りに水戸駅の喫煙所で煙草を吸う、それを伏見は何よりも
楽しみにしていた。
ストレス解消、そのストレスは勤務する職場で、既に限界値を
超えていた。子供の消滅と、マスコミの対応である。
イライラがつのる。
労働基準監督署に疚しい事はない。


「おたくの病院は、残業手当を払ってないようだね?」
伏見は呆れて、咳き込んでしまった。
「ああ?・・・何の話だ。いいところを邪魔しやがって? ・・・明日にでも
大学へ来い。必要帳簿を全部提出するぜ」
実にくだらない話しに、伏見は呆れた顔をした。
「俺は特別司法警察官でもある。知っての通り監督署には
逮捕権もあるのだよ」
問答無用のものの言い方だった。
残業手当の不払いなど、記憶になかった。
難癖をつけている・・・・伏見は眉間に皺を寄せた。
さては、やまぐも計画の件か・・・・それしか考えられなかった。
伏見は身構えた。


「君は北島博隆さんと言う看護士に、一時間程の手当てを付けなかった
そうだね? 125%のね・・・」
「ああ?  一時間? だと・・・あんた本気か? 馬鹿馬鹿しい、
煙草を吸わせてくれよ署長さん。あんたどうかしてるぜ」
「どうかしてるってか? たった、だと? お前人様の賃金を
どうとも思わないのか?煙草ってか・・・いい喫煙所がある。
駅前交番という喫煙所さ。
さて、足労願おうか。元海上自衛隊情報部、伏見君よ・・・」
馬鹿馬鹿しい・・・伏見は煙草を投げ捨てると、かまわず
構内に入ろうとした。
それを遮ろうと、伏見の前にもう一人の男が手を広げた。


谷の後ろに立っていた長身の男である。
手帳を出した。
公安警察だ、逃げるとタメにならんぞ、伏見さん」
「逃げる? 何故俺が逃げなきゃいけない。ま、煙草が吸えるなら
行ってもいいが、水戸東署の田部井刑事を呼んでくれ。近くだろ?」
「田部井だと? ヤツは運転免許課へ移動になったぜ・・・・」