箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 九

この地球にあってはならない物である。
初めて見たオーロラは、トムの心に何人も近づけない畏怖を
与えるには充分過ぎる程であった。
どのような孤高の善人なりとて、光りと友になる事は
不可能だろうとさえ思われた。
星さえもが賛美歌を歌うように、
あまたの点滅を繰り返す様は、長年使えた懐かしい主人を想う、
犬や猫の柔らかく遠い咆哮に似ていた。


何度もの航海を続ける中で、光りはやがて彼の体を通過した。
静脈に優しい液体が流されたと感じた時、初めて光は草や花
樹木、川、山、海などと同様な自然へと立場を変えたのだった。
仲間である、とトムは心から叫び喜んだ。
自然というものはいつか人間に同調する。
またその逆もしかり。
主従関係はどうあれ、地球に住む仲間には違いないのだ。



オーロラの光りを邪魔をするその物体は、おそらく何度接しようと
同調はしないだろうと、トムは戦慄を覚えた。
それは受け継がれた人間の脳の記憶、あるいはDNAが、
絶対に一歩たりとも通さない、と覚悟した人工的な感情を持っていた。
物体の善悪の程は分らぬが、胸に入り込んでいる正体はヤツだ。
淫乱剤とも言おうか、それをばら撒いている者はヤツだ。
ヤツにはヤツなりの考えが、使命があって、この地球に潜入したのだ。
胸を奪いオーロラを獲られようとしているが、多少の善が感じられた。
何故か?
一方的な微かな善が、球体から醸し出されていた。
悪人が死を前にして、善人になろうとしている雰囲気があった。
美しい花を切って、他の花に捧げる奇妙な陶酔にも似ていた。
オーロラを覆っては居るが、部分的には透明であり、星々の光り
もさほど変っていないように見えた。



自然現象ではない。
この世では到底受け入れられない物体であった。
地球外の物、あるいは宇宙の外の物と思われる。
あるいは霊界から来た宇宙船か?
ありえない、とトムは首を振った。
何故なら霊界はこの世と密接な関係がある。
見えないが、その意味からは霊界も自然界、そう言ってもよいだろう。
同調はとうてい不可能であろうと、トムの考えに賛同するが如く、
正面に浮かぶ氷山のひとつが崩れた。
....科学などなんの意味があろうか
その時トムの胸の痛みは消えていた。



時計を見た。
午前六時半。
国旗を掲げ国家を斉唱する時間である。
パトリシアの写真にキスをし、寒いデッキに駆け上がった。
「遅れてすみません....」
靴紐が乱れていたが、かまってられなかった。
砕氷船の乗り組み員の規律は、何よりも時間厳守が最優先。
未だラッパが鳴っていない。
....俺を待っていたのか
デッキを見た。
しかしそこには、誰も居なかった....



....おかしい
おーいと叫んでみた。
叱責される姿を予測していただけに、
想像も出来なかったこの光景は、夢の続きなのかと思った。
気を全身に注入し、えい、と腕を平行に振った。
予想した今時間の光景はそこには出現しなかった。
汗が流れた。
海水のような飛沫を持った汗である。
血が出るほどに唇をかみ締め、船長室へと走った。