箱舟が出る港 第四章 一節 戦い 十三

船長室にはカビの匂いが、ギザギサと籠っていた。
新調したスーツを着込んで、逃げた妖獣を追い、何処とも知れない山の洞窟に入
り込み、貪られた人骨を探すかのように、トムは古びた航海日誌を捲った。
捲るたび、膝にナイフを突き立てる事を忘れなかった。
非日常という毒素に戦いを挑むものの、鬱血と痛楚が現実を語りかけ、妖獣は
セピア色の室内に溶け込み、哂っている。
断崖絶壁の岩の下遥かに、故郷のニューヨークの曙光が見えるが、翼ありとて
帰る事が不可能な余韻を持った、冷たい哂いであった。



夢ではなかった....
ならば大仕掛けな、悪戯ではあろう。
仕掛けた者は何を哂うと言うのか? 何を意図し何を狙っているというのか?
想像も出来ないが、少なくとも人間の意思では無い事には間違いがなかった。
そして南極に毒素の源があるだろうという事も。
極地は顔の見えぬ獣を使って、毒素をばら撒いたのだ。
何故なら64年という長い時を経て、全く同じ時間が二度出現した、ただひとつ
の誤りを犯して。
誤りとはトムという人間であった。
1942年の時間の中に居るべき存在ではないのだ。



.....1942年だと?
....私を含め【41名】だと?
....2006年だ!
....私を含め【42名】では無かったか!?
 いずれにしても航海日誌は読まねばならない。
必ず何らかしらの謎解きの鍵があるはずだ。
そう考えると少し落ち着いた気がした....。




【1942.10.3  珍客あり。レビヤヒヘド諸島通過後、航海士が救命ボートの中に
発見。名はロイ・ビックスビー。背広の内側にネームあり。身元に関して分った事
はそれだけだった。食欲旺盛。皺が深いが、35歳〜40歳程度と思われる。
船医の話によれば重度の記憶消失の疑いが濃いとの事。まさに即頭部に鈍器で
殴られた形跡あり。喧嘩の果てにボートに放り投げられたと推測される。
この男メカニックに非常に強い頭脳を持つ人物と思われる。我が船の機関音から
エンジンの製造年月日を当てる。風体から判断するは漁船の船員か?
ズボンのポケットから奇妙なものを取り出す。
IC回路とか理解に苦しむ形容を使う。
今更返すわけにも行くまい。とりあえず雑役夫として、航海の手伝いをして貰う
との事にて、全員の意見の一致を見る。幸いか、頭の怪我は軽症なり。
風少し強し、波もまた、高し】