箱舟が出る港 第五章 一節 霖雨 二

murasameqtaro2007-03-01

時任小夜子は
生みの親の顔を知らない
孤独な少女だった。
尤もそれは
大人の
観賞眼の言うところであり、
本人にとってみれば至極当然
の事のようであった。
例えば教室で一人の机で弁当を食べていても、遠足でバスの座席にぽつん
と座っていても、さして寂しいとは思った事はなかった。
暗闇の世界で絵を描いている自分を知っているものの、完成した作品には漆
黒の風景はひとつも見当たらなかった。
他のクラスメイトと価値観が違うと言ってしまえばそれまでだが、人間界との間
に距離を置く事が、生きる定めのような気がする。
何故どうしてと、小夜子は自分に何度問いかけたか分らない。
近寄って来るクラスメイトは沢山いた。
数えきれない程の男子から告白のメールを貰った事もある。
人が寄ってくる容貌を持ち合わせながら、小夜子は自ら長い雨、恰も霖雨のよ
うな遮断機を下ろしてしまう。
いつの間にか小夜子の周りには、人が居なくなっていた。
しかしそれは好意の沈黙であった。
小夜子さえ心の扉を開ければ、何時でも歓迎するよ、との暖かい沈黙であった。
産みの両親が居ないからとの同情もあったが、何よりも小夜子は同性からも、
異性からも好かれる雰囲気と容貌を持っていた。



菜の香交じる青い風が心地よい竹薮から月を見ていた...
それが小夜子にとってこの世界、地球での一番遠い幼少の記憶であった。
あれはいくつの頃だったのだろうか?
髪を洗い上げポニーテールに結ぶと、鏡台でルージュを引いてみた。
鏡に映る私の姿は、他人にも同じように見えるのだろうか?
いや、見えはしないだろう....
何故ならこの世界では想像もつかない程の、断片的な記憶が一方にある
からだった。
あの日透き通った羽を持ち、高い所を毎日毎日飛んでいた。
岩陰のような衛士に守られ、持つ杖から白いエネルギーを放射し、迫り来る
邪悪な者と戦っていた。
巨大な球形に蛇の眼をひとつ持った邪神から受けた光を受けた刹那、この
地球に倒れていた。
気が付いてみると月が浮かんでいた。
おそらくはあそこから来たものと思う。
不毛の月などに生命はいないと、地球の科学は教えていた。
...惑星シバラジャン
月、ムーンは確かそう呼ばれていたはずだ、一方の記憶の中では....
 


「小夜子、ご飯よ」
16歳になると言う彼女を呼んだのは、育ての母親であった。
時任家は育てと同時に、拾いの親でもある。
「わかったわ、今行く」
ルージュを消して立ち上がり、カーテンを閉めようとした時だった。
月に一条の光が流れた。
長年の疑問を氷解するような、ある種のアーカイブを破壊する、鋭利な矢に
似た光芒に思えた。

あっ....!!


それは軍事宇宙船やまぐもから解き放たれた、二機の戦闘船であったが、
小夜子には懐かしい記憶がより蘇った。
....そう言えば高月美兎さんは....?
過去何度も会っているはずの彼女であったが、何時、何処で会ったのか、思い
出せなかった。
美兎も微笑むだけで、何も言わない。
常央大学大洗高校の転校生にしてクラスメイト。
....彼女は陽のプリンセス、月のプリンセスだった....
そして私は...私は....影のプリンセス....
.....惑星シバラジャン=月の霊界を支配する女王だった...
すると、筑波山から火山活動とともに出現したと言う宇宙船は、あの断末魔から
の避難ではなかったか?
そして..惑星ベルセブブの霊界からの攻撃から逃れる箱舟であったはずだ。
箱舟は何故この地球に出現したのか?
おそらくは、出られなかったのだ...
この宇宙を抱擁する上位存在から、逃げられなかったのだ...



私を探しているのね...
すると、脱出するキイがこの地にあると言うのね...



時計の針が逆周りして、鐘が七回鳴った。
とても欲しいものを買って、何かのきっかけでしまい込み、
忘れてしまう。


忘れていた欲しかったものを突然秘密箱の中に見つけたときの嬉しさ。
鐘の音はその時の心の鳴りに似ていた。