箱舟が出る港 第五章 一節 霖雨 一

「レベル3確認しました。発信地はブラジル、セルバ地方。テフェシティ
より北北東へ87キロメートル。西経75度20分、南緯8度25分。やまぐも
現在地からは、スキャンは無理です。偵察攻撃レーザー衛星、モスキートを
分離致しますか? ブラジル上空まで25分。誤差は0.002秒。ご指示を御願いい
たします」
占いに使う水晶球を彷彿させる薄い紅色は、軍事宇宙船やまぐもの管理司令
塔、心【ハート】であり、やまぐもの中央部に設置された水銀イオンを動力源
として、船体の隅々までその命令下に置く。
限りなく人間の女性に近い暖かい感情を込めた声で設計された、心、である
が、やはり金属質独特の抑揚を纏っている感は拭えなかった。
CPUとしては、ここまでが現在の地球の科学技術の最高水準であった。



心、の設計製作は日本の民間企業、【巡行日立機械工業合名会社】である。
社員数三十名程の町工場は、その稀有なる技術力の高さ、及び超優良な
財務内容に反比例し、資本主義社会に目を背いた印象があった。
株式公開はおろか、その気になれば、上場も可能なはずである。
そして【合名】と称す名は、この時代において、いかにも古びた印象を持つ。



「レベル3では、迷うところではあるね。君はどう思うかね、心、よ? 
予想もしない敵が現れたものだね」
唯根鉄雄やまぐも船長は、地上の信号機を思い出していた。
横断歩道の直前十メートルで、青から黄色に変わる瞬間の心の動向である。
突っ走るか、止まるか、のふたつである。
ありふれた心象であった。


「大丈夫そうですね。4を感知した後の分離で宜しいかと。
二人とも役目がありますからね。簡単には負けないでしょう。ここにいるよ、
との感情が読めました」
少しの沈黙を置いて、心、が答えた。汗ばんだ人のこころに、心地よい清流を
流すかのような間のとり方であった。
「私もそう思う。奥歯は触れたに過ぎない」
アメリカ合衆国大統領ケント・アンダーソン、高根沢雄一郎総理大臣、その
他限られた一握りの人物達は、口内に宇宙船やまぐもと約束事をしていた。
奥歯に仕掛けた電磁石状況信号装置は1から5までのレベルがあった。