箱舟が出る港 第五章 一節 霖雨 三

「未確認飛行体をキャッチしました」
「敵か? 心よ?」
「感情は読めませんが月面上に展開している蝿座の敵とは違います。ビル・クリ
ントン及びロナルド・レーガン分離後一秒の間に突然現れました。まるでこちらの
動きに呼応したかのような表れです。熱反応はありません。有機体とは違うよう
です。例えばの話しですが....」
「何だね? 続けていいよ」
「霊体のような気がします」
「霊体? 幽霊って事かね? 抽象プログラムの中にも、そんな不条理なデータは
インプットしていないはずだが? つまり自然界のものではない、そう言う事だ
ね?」
「私には世界中の言語、世界中の百科事典もインプットされています。幽霊、ゴ
ーストと言う非科学的な形容を"CONCATENATE"=抽出してしまい申し
訳ありませんが、ミスではありません。全てのデータベースが有機体でない事を
アウトプットしてます。よって動力源はゼロ、不明です。勿論隕石などではありま
せん」
「ふむ・・・一反木綿のような妖怪か、はてまた天国か地獄からの使者という
事かね、心?」
「ご冗談を。よく分りませんが、異空間、あるいは天上からとでも申しましょうか、
そこから飛来したようですね。日本の鉱山地帯を目指しているようです。この
ままの軌道ならば、100パーセントの確率で高萩市の山中、半径二キロ以内に
着陸するでしょう」
「大きさは?」
「縦幅3500メートル、"オートカルク"横幅500メートル、体積、質量はゼロ、 魚、
就中【うつぼ】のかたちを連想して下さい。空間ノイズ処理後の画像をお流し
致します」
「大きいね...。宜しい、検討しよう。ここからは君にはロンとビルの制御のみを
御願いする。x1とx2そしてウルフ16000の現況はどうか?」
「全て順調です。2分後に目的地に着陸。ミリオンダラー号のx3の海底作戦の
準備完了です。アメリカのランドサット及び護衛宇宙駆逐艦三機の到着まで8分
です。それと...」
「それと、とは?」
「ノースコリアにおかしな動きがあります」
「ほっとけ、いつもおかしい国さ。あそこは、ね」
「...そうですね。杞憂です。...それでは、キャプテン、サー」
メインディスプレイに画像が流れると、唯根はマーク航海士に物体の解析を大至
急、と命じた。




茨城県高萩市
何処にでもある形と色彩の家は、サラリーマンの住家であろう。
午後七時を刻み、あらかたの家庭では夕食の時間であろうか。
時任家の二階にはピンクのカーテン越に濃い灯りが灯っていた。
「どうしたの、小夜子。ご飯が冷めるよ?」
母親のみちるが部屋に入ってきた。
小夜子はピンクのパジャマを脱いで、全裸になって佇んでいた。
「ま、なんて格好。今、お風呂に入ったばかりじゃないの? パパが見たら気絶す
るわ!」
みちるは怪訝そうに、後ろから小夜子の背中を見つめた。
「...傷は癒えました。長い間ありがとう、ママ」
乾かしたばかりの髪の間から、一筋の雫が白桃のような尻へと流れた。
「何言ってるの小夜子。ふざけてないで早く服を着なさいよ。パパももう直ぐ帰る
わよ?」
両肩に手を置くと、小夜子の体を正面にと、みちるは力任せに向かせた。
エメラルドのような限りない青が棲んだ小夜子の眼を見つめた。
「あらやだ...小夜子? 少し印象が変ったようね?」
はっとしたみちるは頭から足先まで、小夜子の体をしげしげと見つめた。
艶のある黒髪、濃い眉、高い鼻梁、二重の大きな瞳、大きな乳房とその上に載
ったサクランボのような乳首、豊かな陰毛、すらりと伸びた手足、長年見慣れた
小夜子の裸体であったが、今ほど服を着せる事をためらった感情は皆無である。
ジャージ姿でも、どんなに着飾った女性より美しさを醸し出していた小夜子なの
だ。これが日常における当たり前で正規な格好と思えるほどの、見事に自然界
と調和した全裸の小夜子であった。
服を着ている自分を、一瞬卑下したみちるである。
...今夜の小夜子は何故か神々しい...
「...ママ、私は帰らなきゃいけないの。これが旅立ちの姿なのよ」
「この異常気象のせいで、どうかしちゃたの、小夜子?」
「ううん。気は確かよ。また、帰える日があれば、いいな...」
「おっ、怒るわよっ、ママは!!」
「お別れに直してあげる。ママの子宮を、戻してあげる、だから...」





駆逐艦大風...ですな ? 磯前さん?」
柔知流館(やわらちりゅうかん)館長知流源吾の名刺の持ち主は、すらりとした
長身を折りたたみ、居住まいを正した。
とても90歳とは思えない身の軽さは、柔道だけが形作った命ではあるまい。
確かに外見は歳相応に見えはするものの、不老不死の薬を飲んだかのような
不思議な若さが双眸に宿っていた。
このまま朽ち果てるとは思えない底力が宿っている。
柔らかな口調は、例え100メートルを全力で走っても、息などひとつも乱れる事
はない印象で、昔と全く変っていなかった。
「おっ...お久しぶりです。知流源吾海軍大佐 ! まさか...不肖磯前....
まさかこうして再びお会い出来るとは思いませんでしたっ!! 覚えて頂いて光栄で
ありますっ!!」
磯前五平は敬礼をしながら、熱い涙を流し、畳に屈してしまった。
「よい、よい...暫くでした。久しいのう磯前海軍中尉....ま、体を上げなさい。
遠路ご苦労じゃったのう。さぞ疲れた事じゃろうて、さ、さ、楽に楽に...」
錦鯉の飛沫が聞こえた。
お手伝いらしき中年の女性が酒を運び、敷居を後にした。
庵には少しばかりの風が流れていた。
「私は私は.....」
若竹がカタンと鳴った。
「いいんじゃよ、皆分っている事じゃよ。過去を封印しようと何度思った事じゃろ
うか? だがのう、こうしてやはり使者はやって来たと言う事じゃな。君がいずれ
来る事は予想していたよ、ま、飲め、磯前中尉。さぞかし、霖雨の日々じゃったろ
う。何も言わんで、よい...泣きたいなら、小僧のように思う存分泣くがよい」
正しかった。
こうして、いま、ここにいる。
夢のような再会だ。
夢があったからこそ、ここまで生きてこれた。
長年捜し求めた駆逐艦大風を知る者、
それは矍鑠として遠い、大隅半島高隈山地に居たのだ。
しかも大風の責任者である、艦長だった。