箱舟が出る港 第五章 一節 霖雨 五

四歳の時から十六歳の秋まで、十二年間楽しい思い出ばかりだった。
台風の中顔いっぱい涙で濡らして、ちっちゃな私をおんぶして、必死で病院に運
んでくれた強いパパ。
事ある毎に、沢山の本を読んでくれたり、美味しいものを作ってくれた、優しい
ママ。
今でこそ時任家は安定したけど、パパやママが、休み無く土日も深夜バイトをして
いた事を私は知っている。
そのお金は全部私の為に使ってくれたのね。
カップ麺だけのふたりの食事を思い出すと、真の涙というものを私は初めて知っ
た。
他人なのにいかに愛されていたかを、私は胸に刻み込んだ。 
思い出に子供の頃いつも手にしていた、セーラームーンのフィギュアを貰ってい
くわ。
ふたりの汗のかたち、手垢がついた私の大切な宝物。
沢山の思い出が詰まった、初めての贈り物だったね。
パパの煙草の香りも、ママの石鹸の匂いも、私は忘れようとしている。
パパもママも、私の事は直ぐに忘れてしまうだろう。
出来れば記憶など戻らずに、二人に花嫁姿を見せたかったけど。
このまま、人間として地球で生きたかったけど。
ママの体は十四年前に戻るわ。
子宮ガンが摘出される前の健康体に戻るわ。
だから、子供を生んでちょうだい。
私の替わりに愛してあげて下さい、いっぱい、いっぱい。
これからの事は、美兎と相談します。
高月美兎は、私の妹なのです。
私は月の自然界の中で、遠い日に死にました。
例え創造主であっても、この宇宙の法則は、死を免れないようなのです。
人間界への介入は、進化と言う操作だけれども、ママの熱い涙は私の意志を
変えたのです。
ううん、...美兎がなんて言うか分らないけど、必ず説得してみせるわ。
私は人間を許そうとしている。
人間は人間の良さがあるわ。
変る事は出来るのよ。天罰はこの程度でいいわ...。
けれど、蝿族はこのままにして置く訳には行かない。
だから、帰ります。
お迎えが来たわ、パパ、ママ。
懐かしい鮫族...。
私は...わたしは...地味なかぐや姫だったのよ。
これが地球への三度目の訪問。
一度目は氷河期、二度目は進化を観察に来た鎌倉時代
丁度日本では元寇の時でした...。

それでは、さよなら、パパ、ママ。




「小夜子...小夜子って誰だっけ?」
帰宅するやいなや、時任正志は靴も方々に、二階に駆け上がった。
「私も、あなたに聞こうと思っていたのよ...」
みちるは全裸のまま、シングルベッドに横たわっていた。
「何だお前、その格好は? 」
「子宮の痛みが取れたのよ、今脱いで確認してたところ、しこりが消えて
る...不思議だわ」
「この部屋は何だったかな? まるで女子高生の部屋みたいだな?」
「子供が出来ないと告知されてから、夢をみていた気がするわ...こうして、
あなたが望んでいた女の子を仮想して、幼少から今までの霖雨の舞台を作っ
ていたのよ。美しい女の子が、居たものとしてね。その雨はもう直ぐ上がる
わ...」
「明日病院に行こう! なんだか晴れ晴れとした感じだね?」
「大丈夫よ、あなた...このまま抱いて..早く....」



常央大大洗高校。
特進クラス一年A組。
「どうしたの、この机?」
「転校生でも来るのかな?」
「聞いてないなぁ...あっ先生が来た?」
「おはよう、皆さん?」
担任の朝の一通りの挨拶が始まった。
ふたつだけぽつんと開いた席を認めた。
「高月さんは、お休みだけれど、もうひとりは誰?」
「先生も知らないの? ...だけど...時任小夜子って子が居たような?
どうしてそんな名が浮かんだのだろう?」
「居た気がするけど、誰だっけ?」
「知らない。そんな子居なかったよ?」
「そうね、なんだか夢の後のように気だるいね?」




2006年11月10日。
世界保健機関【WHO】はMMV【MIND.MYSTERY.VIRUS】...
と苦しい名を付けた。
世界各地の死亡者を合計すると、発生から昨日の時点で、二千三百万人に登
った。VIRUS=ウィルスである。


男女比率は9対1。
女性の死亡者は間接的なウィルス被害者であった。
つまり、夫、恋人の死による悲観的な後追い自殺、信ずる宗教への懐疑がなせ
る自殺というふうに、自らの命を、自らの手で絶った者が殆どであった。
ウィルスは沿岸地帯を中心に、牙を向いた大蛇のように内陸へと蔓延して行った。
ペストを抜き有史以来の最大の伝染病になる事、それはもはや時間の問題であ
った。
伝染媒体は女性ホルモン、手が付けられない。
異常分泌に特効薬が無い。...伝染源が全く不明なのだ。
女性を滅ぼせば、多分ウィルスは治まるであろうが、どちらにしても未来は無
かった。
間接の関節は風評被害の恐怖、即ち魔女刈りの復活も懸念される。
緯度ゼロ地帯。
例外があれば、ここだけだった。
赤道直下に位置する地域、コンゴケニアスマトラ、ボルネオ、コロンビア、
ブラジルなどの国々、地域である。
但しそれも原住民に限っての事だった。
この地に生を受け、育った人間に限られた。
先進国の研究者は挙って赤道を目指した。
キンシャサ大学、ナイロビ国立病院、ジャカルタ理研究所などのデータを基
にして研究の道程で、志半ばにして西側の著名な医師などが次々と倒れては
消えた。
世界的な病理学者でノーベル医学賞を取ったその道の大権威、ソルボンヌ大学
の医師もボルネオ島で死亡してしまった。
何故赤道付近だけが無害なのか?
少ない優秀な人物、赤道付近に生まれ育った者に、天運を任せる以外に手は無
さそうであった。
疑想するには、時間が足りない。
朽ち行く高みの見物とはこうにも侘しいものだったが、降りかかる霖雨の中で
地団駄を踏む以外所存のない先進国だった。
但しアメリカと日本を除けばだが...