箱舟が出る港 第五章 二節 軍神たち 一

大きく鋭い爪が引っ掻いたような形の夜光の雲は、強い風に流されながら月を妖
しく覆い、星々を盲目の世界へと追いやるかのように、物の怪の様相を夜空に貼
り付けていた。
【こびと】はその変化を知ったのか、山中唯臣の手のひらで、小さく微かに震
えていた。


「ベルゼブブに食われたフォボス源住民。文明的には地球の中世に当たる。頭脳
は地球人並みだがね」
エリア51の地下五十五メートル。階層的にはビルの二十階に当たる。
「消化出来なかったのですね?」
哀れな生物の頭に小指を軽く乗せた山中は、音に気が付いて、眸を入り口のドア
に向けた。包帯も痛々しいジョン・カニンガムが片手を挙げていた。
「たいしたものだ。切断された指は縫合され、機能したよ」
包帯をとろうか、との仕草をしたが、山中は制止した。
「そのほうがいい。バイオコンピューター【生命工学コンピューター】でも間
違いはある。尤も確率は天文単位だが」
チーフ・スタディのアラン・ゴールドスミスが、レーザーメスを助手に渡し手袋を
脱いだ。
「出来れば生きているベルゼブブが欲しかったが」
ゴールドスミスは手の消毒をしながら、山中に皮肉の眼を送った。
「プロフェッサー、それは無理ですよ。ヤツラは飛んでいる事が多い。ならば私に
も羽を下さいな」
「無理、無理。お前さんのような巨体を飛ばすには、プテラノドンが要るよ。乾坤
一擲のチャンスを格闘家などにくれやがって」
「まあ、ね。でもジョン・カニンガム氏の力も見たかったものでね」
山中はジョンにソファを勧めた。
「ありがとう。助かりました。しかし日本の名刀とは素晴らしい。また貴方のケン
ドーも」
傍らに置いた妖刀村正と山中の顔を、ジョンはしげしげと見つめた。
「格闘家くん、どうかな、指は?」
ソファのテーブルにはコーヒーが二つしか運ばれなかった。
アランはジョンにそのひとつを勧めると、もうひとつを躊躇なく自分で取った。
「あれ、プロフェッサー? 私の分は?」
山中はニコニコとゴールドスミスに微笑んだ。
「ないよ。君は泥水でも飲んでいろ!」
「チャンスはまだまだありますよ。やまぐもから衛星写真が送られてきたでしょ?
日本、茨城県友部。五体ほどが後輩と戦闘を交えるようですな」
「君の後輩ならメチャメチャにしてしまうかも知れない。凶暴過ぎる。万が一
勝てたらの話しだが!」
「いいリーダーがいるんですよ。知流大吾って後輩がね。彼は冷静です」
「ふん、どうだか? 日本人は短気者が多いからね、例えば...」
「また真珠湾、バンザイ突撃、神風ですか。止めて下さいよ。それよりコーヒーを
私にも?」
「やらん。生きている蝿族を捕まえない限り、金輪際わしは君にはやらん、なあ格
闘家くん?」
「・・・そのキリンのようなちいさなオモチャは何なのですか?」
山中の手のひらで口をパクパクしている不思議な物にジョンは目を丸くしていた。
「火星の衛星フォボスの住民さ。オモチャなどではないよ君、生物だよ。わし達は
【こびと】と呼んでいる」
「かっ...火星に...生命が居たのですか、スピリットは、オポチュニティは!?」
「君はそんな事も知らんのか? 喧嘩だけは得意のようだが、頭はからっきしダメだ
わな。いいか、火星どころではないぞ。太陽系は生物の宝庫だ。尤もそれは古
い話で、今は衛星フォボスと月だけだ。そのフォボスももうすぐ終わりだがな...」