箱舟が出る港 第六章 一節 残照 八

murasameqtaro2007-03-28

ルームミラー超しに
ちらちらと、
ちえ美を見るタクシー
の運転手が、声をかけた。
「たいへんだったねぇ、
あなたも・・・」
大型トラックが、遅い。
急ハンドルを切り、
たちまち追い抜いた。
タクシーは、
駅前から土浦市内を一望出来る、高架道に入った。
通行量は少なかったが、追い越し禁止区間である。
マスコミもタクシーで追いかけたが、運転の腕前が敵わない。
ハイエナめが、と運転手がリズミカルに呟いた。
たちまち追跡の白が、消えて行った。
はぐれ曇が何かに追われるように、並んで動いていた。
高架道を出れば、土浦学園線である。
このまま真っ直ぐ走れば、直ぐに筑波研究学園都市に入る。
ハンドバックを開けて、ちえ美は精神安定剤を取り出した。
水を忘れていたと、目は自動販売機を探している。
高架道には、販売機は、ない。
急ぐんだろう? 良かったら使いな、と運転手が、デミタスコーヒーのカンを、
後ろ手に差し出した。
「・・・ありがとう」
コーヒーと薬はあまり良くないが、ちえ美にとって、差し出した手は、薬よりも心
の平衡を与える、虹色の卒業写真の風景を思い出させた。
無理もない。
あの騒動から、罵言中傷の嵐が吹くばかりで、安堵の地が、なかった。
たいへんだっねぇ、と言われた瞬間、追い抜いたトラックに撥ねられて死んで
しまいたい、と返答せず、よかったと思った。
少し自分を取り戻した、そんな気がしないでも、ない。




「宍塚大池の慈門寺だったね? 鍋島慈形さんか・・・あそこの坊さんは
いいらしい。神学を学んだはずが、寺の住職だ。変っているが、しかし、
水戸モンとか東京モンとかのお客がばかに多いなぁ、ここんとこ何度も送迎を
したよ。もっとも慈形さん、あまり人と会わないらしいがね。邪な心を読む力
があるようだ。門前払いが殆どだよ、あんた、・・・あてはあるのかい?」
・・・ああ、流れるね・・・ウィディングベル・・・
・・・TO BE BRIDE・・・残照は羽をつけて・・・
ラジオから流れた曲に慌てた運転手は、咳払いをして、OFのスイッチを押した。
「いいんです。つけて下さい、一生懸命歌って、ヒットさせた黄昏ですから・・・
あてはあります。鍋島さんは兄の友人です」
湖に写る星を買ってくれとねだるような少年だった兄。
遠足の列をいつも逸れてしまう兄。
今は大学講師の傍ら、居酒屋を開業した、という。
講師はいいが、居酒屋の副業とは何のつもりかと、湖に立ったあの日の兄の姿を
思った。
あに、いもうと、でも分らないものが、ある。
・・・ルジラ(血)は遠すぎるあまたの星から、流れる。
幾多の年月が流れたのか。
立花龍一・・・・
ちえ美には優しく、しかも強い兄であったが、確かに変わり者ではあった。



「!! ・・・そうかい、そうかい!!・・・あんた、良かったなぁ!! 
鍋島慈形住職と知り合いだなんて・・・地元でも会える人は少ないって、
もっぱらの噂だよ。人は間違いを誰でも起こす!!修正する時間も一杯あるのさ。
いい曲だなあ、黄昏っていう名だよな?死んだ娘夫婦が大好きだったよ、
・・・俺も慈形住職に会いたいが、罪を犯し過ぎちまったよ、お目通りはかなわ
ないだろうな・・・」
「・・・MMV、・・・にですか?」
「・・・想像に任せるよ。あんたはやり直しがまだまだ聞くさ・・・がんばんな、
ほれ、到着だ」
懐かしい樹木草花が揺れていた。
「・・・ありがとうございました、いくらですか?」
遥かに望む筑波山が、はっきりと見えた。
双峰だった、かつての姿は、ない。
距離的には二千円程度で十分済むはずだったが、ちえ美はサイフから出した
一万円を渡すつもりだった。
料金メーターが倒してある。
天孫降臨の地は高千穂と言うが、筑波山だったという節もある。
降臨だったのか知らんが、宇宙船とやらが・・・おっと金ならいらねえよ、
あんたのサインでも、くんないか」
束ねた髪をほどく、ちえ美。
髪をくしけずるかのように、前奏のように一匹が、啼いた。
それを合図とするかのように、ちえ美の来訪を待ちわびたように、夕立に
似た音が聞こえた。
ヒメハルゼミは寺を囲む照葉樹木の中で木漏陽と化し、宮司のような清らかな
舞を舞っていた。