箱舟が出る港 第六章 二節 装束 十一

murasameqtaro2007-04-18

「驚かれるのも、無理は
ないです、ステキな
お嬢さん。皆藤くん?
仮採用書類を一式持ってきて
くれないか?あ、コーヒーと水、
そして"緑" もお願いする」
何処からかの、キーボードの
微かな音が、ピタリと、止まった。
曲はショパン英雄ポロネーズだった。


左側の白いパテーションのその奥に、部屋があるのだろう。
小柄な女性が現れた。
先ほど真理の名を呼んだ、黒ブチの眼鏡をかけた、あの色白である。


「はじめまして、小糸さん。私はソフト開発の帰任者、皆藤奈々と申します。
歳はご想像に任せます。どうぞ、コーヒーを」
エアコンが効いているにも関わらず、蒸し暑い室内に、風鈴が揺れた。
鈴が転がる声とはこんなもなのであろう、きつい印象を持った
皆藤女史であったが、以外に物腰は柔らかだった。
「それって・・・それって・・・少しおかしいじゃないですか?  
だって私、まだ、馬鹿にされている気がして、ならないわ・・・
それにここに入社すると、決めたわけでもないよ、アタシ・・・」
「もっともだ。目を開けたまま、夢を見ているような顔だね、お嬢さん。
だが私の話しを聞いてから、選択したらどうかな ? 帰るのは、
いつでも出来る。 去るものは追わないつもりだ。ああ皆藤くん、
ドアを開けといてくれたまえ」
嫌ならいつでもお帰りなさいなと、皆藤が帰り道を用意した。
 

入社はしたい。
来年2007年は、大幅に景気が回復するだろうと新聞で読んだ気がする。
団塊の世代という高度経済成長を担った、功労者たちの退職もある。
労働者市場が、活発化する予感はある。
全世界でMMVによる死亡者は、風評被害も含めて、約三千万人。
世界中の医療機関を始め、様々な人が、企業が、対策を取ろうとしているが、
原因はまだ掴めない。
沿岸地方を中心に蔓延するウィルスは、すでに、世界の内陸20キロメートル
まで、進捗を広げた。
人々は故郷の港町を捨てて、海から遠ざかる事もせず、何故か居座っている。
愛着のあるわが町を捨てないとの思いもあるが、理解できない磁石のようなも
のが、体の中に進入したように、土地に吸い付き、離れないのだろうか。
それどころか、涼を求め、危険を覚悟で、海岸にやって来るのだ。


日本の警察は海岸に近づかない通達を出したが、効果は殆どなかった。
今やペストを抜き、罹患者は世界中で三千万、有史以来最大最悪の
伝染病になっている。
・・・像は死ぬことを予知した時、どことも知れぬ墓場へと移動すると
いう。
国連加盟国から計算すると、日本では約十万人の被害者。
一県あたり約2200人を数える。

有史以来の未曾有なる危機にも関わらず、何もなかったように、人は
学校へ、職場へと足を運ぶ。どう考えても、おかしい事ではないか?
もはやどうにでもなれと、さじを投げてしまったという事なのだろうか?
他人事と思っているのかどうかは、分らないが、人も経済も狂った歯車の
ままに、営みを続けている。
景気など回復するはずが、ないと論説するのが、常識であろう。
労働人口が著しく低下している。
縮小された、回復なのかと、飲んだくれの父の顔を、真理は思い出した。
淘汰なのかと、付け加え、株式市況を父は見つめていた。
縮小上の発展なら、必然的な犠牲が伴う。
簡単に言えば、死という名の大規模なリストラなのだ。


巡行日立の初任給は高卒で固定給35万、大卒で40万である。
町工場にしては、実にバカ高い。係長クラスである。
茨城県の場合、残業手当ては別にして、基本給は高卒で平均約16万8千円前後
なのだ。大企業でさえ、このような例は皆無であろう。
綺麗で垢抜けたオフィスは真理に遮断機を下ろした。
木造作りの二階建て本社の概観、古びた巡行を第六希望に選んだのは、ひとえ
に金銭面にある。
美貌には自信があり、芸能界に入ろうと思ったりはしたが、自分の性格を
よく知っている。
一瞬の花火で終わる気がする。自己本位な性格で、他人とうまくやっていける
自信がない。
人に合わせる事も社会人としての勤めだ、と担任の教師もいう。
確かにその通りで、仲良くなった友達も、直ぐに真理から、去っていった。
大企業は無理かも知れない・・・こんな場所が一番いいかも・・・
女性も少ないようだし、お山の女将でいられそう。
天上にくもの巣が張り付いていた。
遮断機が下りている。


今度は電車が通過するまでの遮断である。
選択は自分次第であった。