箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

山口はカレンダーを見た。
税務調査となれば、過去三年間は振り返る。確実に三日間が潰れるだろう。
あるいは過去五年間の調査も多いことから、それはきつい日程になるだろ
う。
月次決算書の作成日、締め切りが十日である。今日は四月二十九日。
五月十日まで、今日を含め十二日しかない。明日は月末定時支払日にて、
銀行他外回りをしなければならない。
税務署は五月七日に来ると言う。勿論都合が悪ければ、調査は延ばすこと
は可能だ。可能だが後回しにするだけであって、仕事量の減少には繋がらな
い。七日に来ても、一ヵ月後であっても、変わりはない。
「月次決算書はまだか? 茨城工場が遅いので、連結が組めない」督促する
東京工場の常務の顔が、脳裏を駆け巡る。
自分のご都合主義者で国策の銀行上がりのこの男は、資金調達以外やる事が
ないので、つまらない事でも電話をかけてくる。社長に近い場所にいるので、
めったな対応が出来ない。
―――参ったな、ホント、参った・・・
総務は偶発的突発的な仕事が舞い込む。
社員募集も職安に出している。応募者が来れば、多くの時間が費消されてしま
うのだ。ろくでもない応募者が来て、機会損失になる場合も多い。
生産現場、生産管理、生産技術、品質管理、受払い、出荷、電算、業務、
営業など。これらの他部署は所謂雑用がない。雑用はすべて総務に回って
くる。
―――納得する仕事が、出来ない。このままではミスを連発し、収拾がつか
なくなる。
こんな会社に就職すべきでなかったと山口は後悔した。毎日が運動会である。
毎日が体育の時間である。ホワイトカラーの総務と言っても、落ち着いて机で
仕事をする環境ではないのだ。
―――調査が終わったら、ここを辞めよう
39才。新しく何かを始めるには遅い年齢かも知れないが、総務経理ならば転職
が比較的容易であろう。
だらしなく机に屈した山口だったが、辞めるにしても後任を探す事と、引継ぎな
どの多くの業務があり、血液が泥にでもなったように、体が重くなった。


昼の休息時間を利用し、落ちた汚れた花びらがまだ残る桜の木の下に寝転
がった。
緑地部分に横になり、精神を固めようと思ったが、仕事は山口を離してくれな
い。
環境ISOの定時審査が五月末にある。
前回の審査で、工場立地法と浄化槽法遵守の事と指摘された。
山口は環境ISOの事務局長でもあった。
工場立地法は緑地面積が肝心となる。法的要求事項の要である。
敷地面積18000平方メートルの工場であり、60年以上の歴史があるにも関わ
らず、ある事情あり、立地法に基づく届出を茨城県に提出を失念していた事が分
かった。
浄化槽法も然り。書類を作成し、県の環境課にも行かねばならぬ。それも直ぐ
にもだ。提出しなければ、苦労とお金で取得した、ISO14000の取り消しを覚悟
しなければならない。
―――今まで、何をやってたんだ、この会社は・・・
山口の体に病葉がひらひらと舞い降り、胸のあたりに落ちた。
ISOがいかほどのものであろうか? つまらない商売が藪から蛇を出した。
取得しても流行に乗るだけの格好である。服はおニューでも、下着は真っ黒けで
はないか。
置き所のない怒りが宿った。吐き出す術も霧の中であった。


「あれ、山口さん、お疲れのようで・・・」
声をかけてきたのは、副社長の息子の樺沢辰巳であった。
辰巳は月に五度ほど、茨城工場に来る。来たくはないが、将来の社長であり、
常央大学に入学した時から、父の指示で工場経営を学ぶ為、しぶしぶと足を運ん
でいた。
「こんちは」
リックサックを芝生に下ろし、辰巳は山口の頬を見つめた。
「よう・・・辰巳くん。これから講義かい? 今日は誰? 生産技術課長?」
立ち上がった山口は、折り目のないズボンについた芝を払い、尻を芝に付けず
しゃがんだ。
今は学生とは言え、将来の樺沢グループの経営者である。
「製造課長の福本さん。QCDを教わることになってます。それより山口さん、
疲れているようで・・・相変わらず父はわがままでケチで激しいようですね?」
QCDとはQ=クオリティ(品質)、C=コスト(原価)、D=デリバリー(納期)の
事である。三点をバランスよくコントロールする事が、命題となる。
随分と進捗が早い。飲み込みが早いのだろう。
「・・・そんな事ないよ。しっかりした副社長さ・・・数字の把握は素晴らしい」
「そうですかね? 今会って来たけど、相変わらず机の上に足を投げ出している。
パソコンの画面には若い女性の裸の写真だ。来客が来たらどうするんでしょう
か?」
「昼休みさ・・・客は来ないよ。一時になればしゃきっとするよ・・・」
「山口さんの実務簿記講義、大変役に立ちました。日商の一級、一発で通りま
した。その節はありがとうございました」 
親子でもこうにも違うのかと山口は額の汗を、ワイシャツの裾で拭った。
「みんな一生懸命働いている。平子のおじさんだって70歳でしょうが。昼休み
なのにフォークリフトを転がしてましたよ。父の命令でしょうね・・・」
「平子さんは真面目だから、仕事の遅れを挽回しているんだよ、辰巳くん。
自分の意思さ・・・」
辰巳はゆっくりと首を振り、
「違いますよ。父は社員の皆さんの生き血を吸っているのです。確かに博士課程
は出てますが、小心者でヨタ公を気取る大馬鹿です。人を人と思っていないの
です。信用出来るのは数字だけの、冷たい理系ですから・・・」
「だから辰巳くんは、ならないように、文系の経済へ進んだの? 」
「合格したのが、ひとつだけだったもんで・・・」
クスッと笑う正直な辰巳だった。
「そうか・・・でも副社長は副社長さ。君の知らないところで、悩んでいると
思うよ」
「いない、いない。色つきの45度の角度つきの眼鏡にパンチパーマ。それでも
大学院を出ている。あんな訳の分からない男、いませんよ。家で飲むとね、社員
の皆さんの悪口ばかり。ホラ、企業は人、金、物と言うじゃありませんか? 僕は
人が一番だと思う。人を大事にしない会社は、伸びないと思いますよ」
「若いくせに、言うね」
山口は両手を合わせ、思い切り背中へと伸ばした。
コキ、と言う音がした。
「実はね、山口さん・・・言ってしまおうかな・・・」
こけた頬に辰巳の強い視線を感じた山口は、時計を見た。
後二十五分、休み時間が残っている。
「何? 彼女の事?」
「半分当たりです。・・・信じて貰えるかどうか分からないけど・・・」
「何よ? 言ってごらんよ」
「・・・どっちが本物なのか・・・父が二人居るんです。彼女も・・・」
「生みの親と育ての親って事。二股かけているってかい?」
「・・・違う違う、そんな意味じゃない。まったくそっくりな二人がいるんです。
代わる代わる父とか、彼女として登場するんですよ・・・
僕は何が何だか分からない・・・」