箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

茨城県南病院。
シルバーのジャガーXJRが、静かに病院玄関前に、止まった。 
ドライバーズシートから降りた樺沢工業所東京統括本部総務課長大門英俊が、
後部のふたつのドアを代わる代わる開けた。
近くの小さな噴水池のベンチに腰をかけた樺沢取手の社員が、一同に車を囲み
頭を下げた。
「山口君の容態は、どうだ!?」
腰痛、嫌う部分を押さえ、どうにか車を降りたロマンスグレー。いつもはきちんと
髪に櫛を入れている樺沢至であったが、さすがに驚いたのだろう、らしからぬ崩れ
た格好をしている。
「分かりません。ご家族が待合室へ入れてくれないのです」
泣き顔で、より深く頭を下げたのは、生産管理室長の具円だった。側には弟で
副社長の光記が、なぜか顔を腫らしてふぬけのように立っている。その後ろに
斉藤工場長をはじめ、部長や課長などの主だった面々が、並んでいた。
「居れてくれん? 当たり前だっ! 今まで何をやっていたのか? 労務管理の何
たるかは、十分勉強してきたはずだ。病気のせいとは言わせんぞ、副社長!!」
「・・・・・・・」
「中小企業など潰すのは簡単だ。経営者が犯罪者になれば、終わりだ。ウチの
ような同族会社は、特にな。大門課長の話によれば、樺沢取手の七十名の
社員のうち、少なくとも四、五人が残業残業の繰り返しで、過労で倒れている
と言うではないか。その穴埋めを他の人間に追行させ、自らの業務は残業で
補う。悪循環だ。百歩譲ってここまでは未だなんとか許しようもある。だが、
残業代をケチんでまともに払ってないとは何事かっ!? なぜ、なぜ早く報告
しない! 私は・・・私は・・・山口君がここまで追い込まれているとは、知ら
なかった。いや、立場上知らなかったでは済まされん。このグループを潰す気か、
光記! 例え弟で父の遺言があっても、お前なぞに取手工場を任せるのでは
なかった。・・・最悪、不謹慎だが、死亡した場合、どう責任を取ると言うの
だ。後遺症が残ったら、どう対処するつもりだ。答えろっ、副社長!!」
「・・・・・・・」 
樺沢光記は、チクリやがってと思ったのか、大門を睨み付け、黙っている。
「まあ、社長。今夜は待ちましょう。結果・・・同じく不謹慎な言葉ですが、
結果が出次第、謹んで対応致しましょう」
額から後頭部にかけて禿げた頭を擦りながら、常務の佐々木が光記をしげしげ
と見ると「おや? 副社長。お顔が腫れてますな。青タンのようですな?
山口君のご家族に叱られましたかな?」それ、みたことかと見縊るように言った。
口元に微々たる変化がある。誰も気づかない、気づかせない。狡猾な佐々木の
得意技だ。口元は止まってはいるが、許してしまえば笑いそうな形であった。
国策の銀行出身。役人の臭いがする。樺沢グループと言っても、たかが成り
上がりではないか。佐々木は表情を崩さない。樺沢副社長が嫌いだった。
「・・・いいから銀行屋は黙っていろ。・・・僕も色々考え中なのだ・・・」
力のない声に抑揚もない、光記も佐々木が気に食わないのだ。
「いずれにしても世間がこの事実を知ったら、ただでは済みませんよ。
ましてや山口君の遠縁には、県議会の大物や、労働基準監督署の関係者がいる
らしいですからね・・・特に監督署に漏れたら大変だ。職員は特別司法警察
ですからね」
社長の側近の佐々木は黙らず続けた。
「山口くんは・・・そんな嫌らしい男ではありません。能力不足で申し訳
なかったと言うはずです。騒がせた責任を取り、自分から辞めるタイプです。
政治家か労基署か知りませんが、背後を動かす懸念はないでしょうね」
空を見上げた大門が呟く様は、混沌とした場を手繰り寄せ、収拾しようとして
いるのだ。
流れ星がひとつ、スウと消えた。
―――逝くのは、あれに乗るには、まだまだ早いよ、山口。
「・・・ま、佐々木さんもお座りになったらどうです。今は我々がここで
議論している場合ではありませんよ。黙って山口君を待つ事です。社長はお車
の中で、お休み下さい。腰が心配です」
はあ、はあと荒い息をし、弟に掴みかからんぱかりの樺沢至を、大門と斉藤が
辛うじて支えた。
取手工場の畑山顧問の乗ったタクシーが、慌しく玄関前に到着した。