箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

murasameqtaro2007-08-26

朝の柔らかな慈母の姿とは
恐ろしく色を異にし、沈み行く
太陽は血糊のようで
あった。
一日の人間の行動に怒りを
唱えているのか、沈みながらも
神岡の網膜を焼く。
ドン、ドンというプレス音が、
生産現場から三百メートル離れた
社員専用駐車場に届いている。
樺沢取手のある取手市は騒音、および振動の規制地域であった。
にも関わらず朝、昼、夕に条例で定められた方法で数値を測ったら、規定の
デシベルを著しく上回る事は明らかであった。
騒音、振動規制法違反。
―――よく獲れたものだ。
高尚な理念を謳いながらもゴールは金銭である。
半ば金で買ったISO、14001。
与える組織も利益を目的にしているから、取得させないわけにはいかない。
神岡は、いい加減なものだと呟きながら、山口総務係長の哀しき足取りを追って
いた。
コンクリートを打たれた駐車場と草叢の境に、空になった錠剤の包みが、10個
ほど落ちていた。
SOLANAX0.8mg ソラナックスと読める。
神岡の胸にコールタールのような重いものがつかえた。
―――山口係長・・・まずここで安定剤を飲んだのですね。
腰周りに疼痛がする。膿んだ火傷の痕に針を刺されたような痛みが未だある。
帯状疱疹は過酷な労働を源泉とし、体ばかりか、神岡の精神までとっくに侵入
していた。
机上の論理では、人は動かない。
やってみて、言って聞かせて解らせて、ほめてやらねば、人は動かじ。
それが経営上の基本的概念とは必ずしも云えはしまいが、尊敬する山本五十六
座右の銘である。
―――名言に当たるものはひとつもないではないか。
部署ごとにウェイブカメラを設置し、社員の仕事振りを監視する。
机に足を投げ出しディスプレイを凝視。ひとつでも気に食わない動きをしている
社員を見つけると「違う違う、あいつ馬鹿だな!!」と金きり声で怒鳴る。奇声に
近い。
机上からの指示とか命令をいくら出したところで、実際現場に入って実態を把握
しない限り、仕事をした事にならないではないか。ましてや同族の中小企業、
経営者自ら指揮をとらず、ふんぞり返っている場合ではないのだ。
やってみて、どころか、高みの見物の経営であった。
前のデスクにいる斉藤工場長は、相槌を打つ以外、なかった。
雑草は、神岡の腰のあたりまで、測ったように乱立している。
一メートル先にくぼみがあった。
山口は、ここに倒れていたのだった。
「おーい、神岡さんよぅ」
しわがれた声を振り返ると、桃井というシルバー人材から派遣されている
老人が、手を招いている。
「何ですかー?」
「ちょっときてくれよ」
「あ、今参りますよ」
神岡主任はズボンについた草を払いながら、駐車場へ戻った。
「あのね・・・いいずらい事なんだが、幹部がいなくてね・・・」
「病院へ駆けつけていますからね・・・」
小さな目をしょぼしょぼさせた桃井は「農薬が少し残っていたはずなんだが」
と云い「もしかして、山口さんが飲んだのかも・・・」と蒼白な顔で継いだ。
敷地管理の為の農薬の保管は総務部にあった。桃井は会社組織図によれば
総務部に中にいる。置き場を知っているのは、山口と桃井しかいない。
睡眠薬だけでは、死ねないと知っていたのかも知れない。ならば山口係長は
助からないだろう。
頬を行く風が冷たい。
血糊のような太陽は、山口の腰を刺々しく憑依し、いつまでも去ろうとは
しなかった。