箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

murasameqtaro2007-08-28

「こちら職安ですが、
採用ご担当の山口さんは
おいででしょうか?」
「ああ、お世話になります。
ビジネスホンの見積もりが
出来ました。山口さん、
おります?」
「焼却炉のダイオキシン測定の日程の件で、
山口さんをお願いしたいのですが」
「ちょっと相談なんだけどね。今回は助けると思って手形を現金にしてくれまいか
と思ってね。山口さん、いるかね ?」
「あ、藤代工業高校の進路担当の者です。職場体験学習の件で山口係長をお
願い致します」
取手市役所税務課です。お世話になります。償却資産申告書が未提出のよう
で、その点、ご確認したいのですが」
「人材派遣の者です。先だってお願いされたワーカーが、当社面接の上決まりま
した。ついては工場見学がてら、ご紹介させて頂きたいのですが」
誰一人として対応出来る者は樺沢取手に居なかった。
総務部のもうひとりのパート社員、沼尻靖枝は山口宛ての電話を何本受けた事だ
ろう。
至急を要するものがなかったのが幸いだったが、自らの仕事に著しく遅滞を及ぼ
した。
もう二、三人社員が欲しい。
山口と沼尻はかねがねため息を吐いていた。
小学生の子供がふたり、いる。フルタイムのパートではあるが、靖枝は残業が
出来ない立場にあった。また一向に上がらない時給に関して、心の奥にわだかま
りがあっての残業拒否だったかも知れない。
時間は一秒たりとて無駄には出来ない。靖枝にしてみれば金属疲労著しい
ジェットコースターに乗りながら、PCや電卓を叩いている思いがある。目薬の
消費が異様に早く、視力が落ちてしまっている。
―――あたしだって頑張っているんだ。これ以上頑張れないほど・・・。
靖枝は人員不足を十分に理解はしていたが、山口の心までは理解出来なか
った。
長身の山口の体の前に、影のような壁がある。
もうひとつ二人がしっくりしないのは、影を作る山口の姿勢への信頼性であっ
た。
山口は靖枝だけに壁を作っているのではない。軽口もたたきはするが、意識して
他の社員をプライベートでは寄せ付けないのだ。
会社の秘密護持を義務づけられている職掌。この職場では他部署の仲良しを作
ってはいけない。山口のかたくなまでの信条であった。
相当数の総務部員が居ればその範囲の中で、壁を取り外しもしよう。ストレスの
発散も出来よう。
ふたりだけで飲み会や食事会など出来るはずがない。お互いに妻子のある身
でもある。
靖枝は三階の総務部フロアーから、ファックスを流しながら、駐車場を見た。
真っ赤な夕日が照らす感情のないコンクリートと、青々と茂る草叢。
人工物と自然物。一線を分離する、まるで山口の心のような境界だった。
草叢を選んだ山口の胸に去来したものはなんだったのかと靖枝はこめかみを
そっと押した。