箱舟が出る港 第二劇 一章  エピソード

murasameqtaro2007-08-24

穏やかな日和で風もなく、
三日前に降った雨は、
さほど水量を増さなかった。
常陸那珂川の流れは殆ど
なく、波紋を広げたり、
跳ねたりと
魚にとっては
棲家を誇示しようと
しているのか、
嬉々とした姿が見られた。
太公望たちは絶好の好条件にも
関わらず不漁だったようで、
「おでこだよ」「ぼうずだよ」「おかしいなぁ」と
空のクーラーボックスを担ぎ、疲れた
ように次々に車の中に消えていく。
やがて暮れなずむブルーインク色の川に、水銀灯が灯った。
小さな手が、ススキ舟を、水面に置いた。
「動かないね、おじさん、石を投げても、いい?」
「川もね、ボク、休む時が必要なんだよ。だけど、見ててごらん。おじさんの
お仕事を、特別に見せてあげるよ」
死掛の依頼が、来た。義は依頼者にあるようだが、どっちが勝っても貢には
関係のない事だった。過去に葬ったクズどもは数え切れない。義のあるほうに
ついていた。死掛の依頼があっても、義がなければ一切引き受けない。
子を殺された親の恨み。法の決定に納得しない親の依頼を受け、懲役が終わり
出所した悪党を刑務所前で風のように、葬ったのは半月前。
内閣調査室の依頼を受け、北の工作員、彼らに協力する日本人極左暴力勢力
都合11名をたった五分で全員始末したのは十日前。暫時の休息だったが、
広域暴力団から依頼がきた。
だが今度ばかりは強敵であり、個人的に葬らねばならない標的が、出現したよ
うに思える。工作員などはものの数にも及ばない事を直感で知った。
生身の人間ではあるまい。ならば同じ俺でなくては戦えないだろう。
生を受けた山は慈父であり、慈母ではあった。二歳の頃まで絶滅したはずの、
日本狼に育てられていたと聞いたのは、12歳の頃であった。
「おじさん、まだ?」
「ああ・・・ごめんよ」
貢はジャージの下から檜扇【ひおうぎ】を無造作に出した。
檜扇とは山伏が身につける修験十六道具のひとつであり、簡単に言えば木製の
扇の事である。しかし貢の持ったそれは、一部が金属性であった。扇の両端
が、である。恐らくは死掛の武器と思われる。
檜扇からパタパタと川に風を送る、すぐさま座禅を組んだ足の中心に置き
「のうまく さんまんだ ばざらだんかん・・・ セイヤァ!!」
手のひらを合わせ、左右の人差し指を山のように屹立させ、呪文らしきものを
短く唱えた。
低い声だが、大地を震撼させる響きが、魚という魚を一斉に水面から飛び上
がらせた。




季節は清明穀雨が過ぎ、立夏の中にあった。
古いものを脱ぎ捨て、新たに旅立とうとする種は薫風の中で開き、人が死ぬ
事は似合わない季節であった。
「山口くんは、どうしましたか!」
「未だ何も知らされておりません・・・」 
タクシーから降りた畑山顧問は、病院玄関前にトグロをまいている樺沢取手
の社員を確認すると、早足でやって来、まずは一礼すると「強く言いすぎました」
と懺悔の表情を浮かべている。先年ノーベル文学賞を受けた、ロイド眼鏡の偉人
に顔が似ている柔和な印象の畑山であったが、やはり人間である。
高卒にして、経団連会長を輩出した日本を代表する巨大企業の経理部長まで
上り詰めた男は、それなりの経験が基礎になる様々な顔を持っている。
好々爺然とした柔和な顔の下には、厳しさもあり、損得勘定もあり、また
慈父の顔など沢山のネタを持っているのだ。
「未だ何も知らされておりません」
石を噛み砕くように、斉藤は同じ言い訳を反覆した。
「そうですか。こんなところにいても始まらないでしょう。待合室へなぜ入らな
いのですか」
斉藤工場長が「家族に拒否されているのです」とすまなそうに呟いた。
「山口くんは仕事の事は一切家庭ではしゃべらない男と聞く。おそらく、一時的に
意識を回復して悩みを告げたのか、昏睡の中で呟いたのかも知れない。いずれ
にしろ命は助かる、きっと帰って来る私は願う。そして副社長、今日限りで私は
顧問を辞任いたします」
その時であった。
山口の親戚で警察官であるがっしりとした色黒の男が、玄関を出、樺沢取手の
面々を見つめながら「いとこは、博坊は・・・たった今息を引き取った・・・
大切な命を会社によって奪われた。殺されたのだ・・・このままでは済まんぞ?
特にパンチパーマのチョングラ眼鏡をかけたお前! 副社長とかだったな?」
と大粒の涙を落とした。
社員には何の罪もない。家族や生活ある故、会社を追い込む事はしない。
だが元凶の頭は抹殺してくれる。
幼い頃の二人の思い出が走馬灯のように駆け巡る。
かつて捜査過程で知り合った菊村貢を思い浮かべた。
「死掛るぞ・・・」
警察官は踵を返した。



「おい、ちょっと待ちなよ、樺沢ってのはてめえだろ?」
樺沢辰巳は背後から声の主を見ると、はっとした。
のっそりと現れた釘のような印象を持つ巨漢は「俺を知ってるな?」と辰巳を
見下ろした。
「ええ・・・同じ大学の先輩ですから。応援団四天王、空手部主将毒島先輩
です」
「ちょっとおめえに用事があってな、すまねえがここで尾行はやめて貰う」
「気づかれてましたか・・・先輩と小田部さんとのご関係は?」
「おめぇにゃ、質問の権利はねぇんだよ。黙って俺の質問に答えてくれりゃ
それでいいのさ。何もしや、しねえよ」
「・・・嫌だと言ったらどうしますか?」
「ほう・・・外見とは裏腹に見上げた根性があるな。俺に意見を言えるのは
大学広しと言えど、知流応援団長だけだよ。その根性に免じてなぜ嫌なのか
聞いてやる。言ってみろ?」
ゆみかの姿はブランコの向こう側の路地へと消えた。
それを見送る辰巳はあきらめたように、ベンチに座った。
観念した口調で、
「・・・ストーカー行為ではないんですよ、先輩・・・」と毒島の鋭い目を
見つめた。
「そんな事はハナから分かっている。俺の目は節穴じゃねえぜ」
「懐かしいものをゆみかさんが持ってましてね。初めて見たのは三ヶ月ほど
前。常磐線の中でした・・・」
「懐かしいもの? 何んだ、そいつぁ?」 
「携帯ストラップです。いや、ストラップ代わりにしている匂い袋です」
「ああ、俺もそいつは知ってる。それがどうした?」