箱舟が出る港 第二劇 三章 常央大学

息が切れる。霙まじりの風が痛い。
心臓が今にも飛び出しそうだ。
死んだほうがましかも知れない・・・
未知なる鬼が下界で笑っている。
髪の一本一本が抹消神経になっている事を知る。
あるいは恐怖で白くなっているかもしれないが、ちおんは己の顔を鏡で見る事
も出来ない。
美貌誉れ高き顔などは、もはやどうでもよかった。



昭和20年2月。
節分の日。
田井智音(ちおん)は、追う者から、必死に逃げていた。
もうダメかもしれないわ・・・
筑波郡田井村から水戸まで約43キロ。
ラソンの距離に等しい舗装もない凹凸の道を休みながら隠れながら、潜みなが
ら敵からかろうじて逃れている。
濃人権市が田井一馬を逃がした後、ちおんのカードについたはずだが、彼の姿が
見えない。
―――ゴンくん、どこに行ったのよ。私はここよ!!
髪の一本を鬼に捕まれそうな気がする。
友部村に入ったようだ。目指す水戸まであとわずかであった。


―――私の身に何かあったら、常央大学に逃げろ。守ってくれる兵(つわもの)
がいる。
祖父の田井一馬の口癖であった。


昭和19晩秋。
大日本帝国は合法的に満州を占領。中国領土の一部を金で買ったのだ。
時空を超えても政治には金がかかるようだ。
欧米の帝国主義よりも、同胞たる力あるアジアの国がよい。
アフリカ人民の如く、足に鉛の枷(かせ)などは断固受け入れられぬ。
人は奴隷ではなく、誰しもが平等なのだ。
欧米は平気でそれをする。白人至上主義であった。
日本はそれをしない。
時計が止まれば、黄色き肌は、この指とまれに集まる。


蒋介石にとっても満州に住む一般人にとっても最もよい選択肢であった。
満州は誰しもが平等。奴隷などいない。
ここに日本国満州県が成立する。
そして蒋介石は対価たる膨大な金銭をバックに毛沢東を台湾に駆逐し、中国の
統一をなしえる。
翌年昭和20年1月15日。
日中講和条約締結。
膨大な金銭を日本はどこから捻出したのだろうか?


戦艦大和、武蔵の46センチ照明弾が夜中のロスアンゼルス市内を裸にした。
花火と勘違いした市民は、翌朝その艦の巨大さに驚愕し、アメリカの世論は
講和を求める声が日増しに高くなった。
加えて国民は懸念する。
話題尽くことのなきミッドウェー海戦の敗因は、自国でさえ今だ実践に至らない
新型爆弾(原爆)に起因するではなかったのかと。
駆逐艦大風・・・。

トルーマン大統領は、世論に連動し、講和を求めたが、日本軍部の答えは
断固NOであった。
アメリカ全土を無血、無条件で占領すると・・・



内閣総理大臣田井一馬と対立する陸軍大臣石原莞爾は、自らの持論である
世界最終戦争論を机上から実践に移すつもりだった。
ちおんを追う者は石原の手の者であることは明らかであった。



常央大・・・
何者がいるのか? 軍部さえも凌駕する力をもつ学府という。
いったいなんなのか知らないが、今は祖父の言葉を信じるしかなかった。






選択肢は多様だ。
手元にある一万を使うのか?
使うとすれば何に使うのか?
酒か、デートか、サラ金の返済か?
空間は選択肢により枝分かれしていくのだろうか。
もしも多元宇宙というものがあったとすれば・・・。



そう、この物語は、私たちの地球と隣接するもうひとつの地球から
・・・始まっているのかも知れない。