箱舟が出る港 第二劇 三章 常央大学

すべからし


雲は一度もおちついてはいない。やわらかき鉛が、龍に化けていた。
風雲急を告げる霙まじりの水戸の坂道。



近づいてきた荷車の筵(むしろ)の中から、三人の軍人が出てきた。
引く農夫の格好をした男も、拳銃を田井智音に向けた。
「田井一馬首相のお孫さん、田井智音様ですね? 石原莞爾閣下の命により
あなたを拘束致します。逃げないことです。遠慮なく射殺します」
―――予想はしていたが、とうとう見つかってしまった。
死ぬのもまたいい。
標(しるべ)無き到達。追われる苦痛から、これでやっと逃れられる。
毒薬、吹き矢、日本刀の下をかいくぐり、それなりの修羅場をくぐった
智音であったが、未来が少しも見えないのだ。
明確に目的を教えられていない。
生きがい無き疾駆に幻滅したと言える。
常央大学までは、あと二キロ足らずの距離に迫っていた。
ここに篭るという兵(つわもの)が祖父の話した通りならば、智音はすでに
守られているはずであった。
幻滅感が体を押しつぶす。生きてきた意味は16歳で死ぬことにあった。
逃れの意味が生きがいたる事は断じてない。逃避に未来はない。


充血していた瞳が、透明な水を湛えた。
「逃げ隠れはしません。お好きなようにして下さい。その前に聞かせて
下さい。卑しくも大日本帝国の首相たる田井一馬とその一族を狙うのです。
世は安泰に向きつつあります。もう良いではありませんか?」
一番鳥が寒そうに鳴いていた。連呼するように、細面の小柄な男がすい、と
智音の前に一歩出て、目を合わせた。
表情がない男であった。
「私は東京憲兵隊、宮村靖史少尉であります。貴女の拘束の命を受けた
責任者であります。よろしい。お聞かせ致しましょう。確かに満州をほぼ
無血で我が帝国の領土としたのは、田井閣下の力によるものであります。
閣下はここで太平洋戦争を締結しようと画策されている。白黄のバランスが
とれ、お互い牽制し合いながら未来を構築すると。石原閣下のお考えは
それと違う。この際一気に白を(白人至上主義)駆逐してしまおうと。牽制
とは相手があって、いずれはぶつかる事を意味します。ぶつかるなら、優勢
な今潰してしまおうと。未来でも同じ事。要点はそれだけです。貴女を逮捕
致します。さあご同行致して貰いましょうか」
―――ガチャ
智音の両手に重い手錠がかけられた。


―――御爺様のうそつき・・・私は一生懸命走った。走る事に私の存在価値
があると思ったから・・・
その先に夢があると思ったから・・・でももういいわ・・・常央大学はもう目と
鼻の先なのに・・・
智音は舌を噛み切って死にます。左様なら・・・
その時であった。


巨漢と左右にふたりの三人の影が霧の中に現れた。
気温が上がっている。
「東京憲兵隊の方々、私は海軍大尉、駆逐艦大風艦長の知流源吾である。
聞いた事があろう。水戸連隊の精鋭が先ほどから一帯を包囲している。その方を
放せ!!」
舌を出し歯を当てた時、野太い声が聞こえた。
―――遅かったじゃないの、御爺様。これで智音も未来が見える事になるのね。
智音の瞳孔がゆっくりと小さくなる。
眠いよ、御爺様・・・
安堵の眠りであった。


「同じ日本人だが・・・一歩でも動いてみな、即、蜂の巣だよ、お前さんたち」
右の影。予科練の山中幸吉であった。
二番鳥が鳴き、空は暗雲が取れた未明の時であった。