箱舟が出る港 第二劇 四章 分岐嶺

〜やーい、赤目、赤目、鬼の目のくせしてよわーーーいアカメ〜


綺麗に晴れた事がない。
少年の頃から、眸は赤く錆びつき、濁っていた。
綺麗ではないが、何もやましい事はしてない。
醜い眸が、他人に背を向ける事を教える。
相手の目をみて話すことが出来ない。
・・・赤目か・・・


58才。
井上輝義は大人になり、今や老人の域を迎えようとしていた。



「東京までお願いする。内閣府へ行ってくれたまえ」
―――学内、それも市島周辺におかしな動きがあったら報告せよ。
常央大を飛び出した副学長井上は、指示した官房長官の一藁力の下へと急ぐ。
元、文部省官僚であった。
常央大に天下り7ヵ月になる。
五日前の夜。
筑波山が噴火し、著しい死人が出た。
子の居ない井上は、甥を我が子のように可愛がっていた。
その甥も、炭になり、死んだ。
死んだのは誰のせいでもない。
山が怒っただけのことだ。天罰が下ったのであろう。
払いたまえ・・・
神の怒りまでに逆らうつもりはない。
かしこみ申す・・・
祖先が守った筑波の山。
井上の父は筑波山神社の神官であった。
山麓一帯は焼け野原である。
今だ身元不明の死体が山ほどあるという。
今日甥を発見しただけでも幸いだったとあきらめるしかなかった。



おかしい・・・。
井上は思う。
筑波山がなぜ(爆発)したのかというよりも、その後が尋常ではない気がする。
喧騒の中に静けさあり。
覚めた世界が広がっている気がする。
確かに他の番組を大幅に割いて、マスコミは毎日大々的にニュースを流して
いる。
筑波山の特番ばかりである。
されど井上の目には、それがなぜか本物と映らなかった。
例えばダビングしたテープの中の世界である。
何番目のダビングなのかわからないが、原本とは微妙に違っている気がする。
いくら飲んでも酔えない舞が炎々と上っている。
覚めたものは、どこから這い出ているというのか?
根拠のない不安。寂寞(せきばく)たる光景。
俺の気の迷いだろうかと井上は心に呟く。
今は言わば祭りの真っ最中のはずだ。
高見の見物、パーティーはまだ始まったばかり。


だが・・・だが?
筑波に捧げた死んだ父の魂が何かを叫んでいる。



「お客さん、綺麗な目をしてるね」
タクシーの運転手の目が、ミラーの中で井上の目と合った。
あわてて視線を外した井上。
―――綺麗だと? 何をいうか? この赤く濁った双眸のせいで、俺は性格が歪んだ
のだ!
「よけいな世辞など言わなくともいい。俺には心使いは無用だ。ラジオをつけて
くれないか? 筑波山は今どうなっている?」
「ごらんのとおりだ、観てみな、お客さん」
ごま塩頭の運転手が右を親指を立てた。
常磐自動車道土浦北インターを通過した辺りであった。
右手に煙が昇っている。
男体、女体の双峰からなる縁結びの山、筑波。
明治ごろまで天孫降臨の地と信じられていたという。
男体峰はすでに無い。
縁が切断されてしまった。




上空をたくさんのヘリコが旋回している。
綺麗な刈り込みの頭。無精ひげもなく、ワイシャツも糊が利いている。
これだけの大事件のはずなのに、この運転手も少しのんびりしていないか?
未曾有の現象である。
例えばワイシャツあたりに、その影が見えてもいい。汚れていてもいいのだ。
この辺りを流す運ちゃんならば、驚愕の息を吐いていてもかまわないはずだ。
だが、事件の動揺が、運転手からも車からも、醸し出ていない。
幾重かのフィルターを掛け、物事を見ている気がする。
隙なきごま塩頭の心情など聞く気にもなれなかった。
―――筑波山麓を中心に半径7キロが壊滅状態。北、桜川市桃山、南、つくば市
北条、東、石岡市柿岡、以上一帯は今だ炎上中。国道125号線、県道14、41、
42、学園東大通り北入り口は現在閉鎖中。現時点までの死者、行方不明者は約
二万二千人。国家災害救助法により自衛隊が懸命な救助活動をしておりま
すが、道路が破壊され、著しく停滞しております。尚一時間後に高根沢総理大臣
が現地に向かうようです。さらにアメリカ、ロシアは救助活動に関し・・・
「やはり、消してくれ。以後私に何も言うな、ほっておいてくれ。内閣府へ付いた
ら教えてくれるだけでいい」
シロ豚のような顔に赤い目。
井上は市島典孝の真意を考える事にした。




誰を許せても、学長の市島だけは許せなかった。
五日前の夜。未曾有の天変地異の中、市島は暴力を使って、職員たちを会議室
に閉じ込めた。
見覚え無き若い男に謂れ覚え無き強烈なパンチを貰った。
―――噴火ではない、地震でもないのだ
市島はそう力説、説得する。
―――あの馬鹿者がっ! 奴は狂っている!!
確かに余波はない。
ないが、噴火や地震でなくてなんだと言うのか?
乱れた心を静めるには、市島を憎む以外になかった。
トン、トン、トン・・・
太鼓が鳴っている、北から聞こえる。
白衣を着た市島が太鼓を打っている。
MMVウィルスと筑波山の噴火の陰に常央があると井上は睨んでいる。
―――奴らは今、高萩に向かっている。何かを企んでいる事は間違いない。
見ていろ、とりあえずお前らの陰謀を暴いてやる。


タクシーは利根川を通過した。
一匹の魚が印象的に跳ねていた。
赤い赤い眸をした大型の魚であった。