箱舟が出る港 第二劇 四章 分岐嶺

井上を乗せたタクシーは三郷ジャンクションから首都高に入った。
三ヶ月振りの東京であった。
官房長官一藁力の存在は井上にとって心強い味方であった。
世間で一藁を良く言うものはあまり居ない。
いないどころか、老醜の代議士と国民の反感を買っている。
逆から言えば只者ではないという事だ。党内に恐るべき力を持っている。
一藁の毒は井上の不安感を簡単に払うだろう。
井上は煙草を取り出した。


「吸っていいかね?」
ルームミラーを見ずに、井上はライターを探しながら尋ねた。
「おう? もう声かけていいのかい。いいよ、すいなよ、お客さん」
「ありがとう」
「なんか、力が抜けたかい?」
「ああ、少し落ち着いたよ」
「そりゃあ良かった。乗ったとき死にそうな顔をしていたよ」
「そうか・・・そりゃあそうだろう。筑波が半分壊滅した。天変地異の現象を見て
あんた、何も感じないのかね?」
妙にきちんとし、落ち着いている運転手に疑念をむけた。
「死者二万を超えたってね。あの夜以来、俺も沢山の人を乗せてへとへとだよ。
神経が麻痺しちまったのかね?」
「そうだろう。じゃなければ、そんなに落ち着いて居られるはずがない。日本
どころか世界中が驚愕している大事件だからね。その中心で働く君。まったく
何もなかったような雰囲気だよ、君は?」
「だってしょうがないじゃない。起こった者は起こった。お客さん役人だろ?
言っちゃ悪いがあんたがたが日本をダメにしている。俺たちはその毒を食らって、
おかしくなっちまったのよ。それだけさ」
大声で笑う声が妙に不気味だった。


「・・・しょうがない・・・か。それでいいのかね?」
「いいの、いいの。どうせまた何かが起きるから。役人さんが蒔いた種によっ
てね、だからいいの、キャハハ」
―――役人が蒔いた種だと?また何かが起きるからいいだと?
クックッ・・・続けて、ケケケケケと、笑っている。



温和そうな細い目にエクボ。
乗車した時は生真面目そうな運ちゃんだった。
が・・・!
―――こいつは狂っている。
心理学の教鞭を執る井上は即座に理解した。
背筋が寒くなった。このまま首都高から落下しないか?
「・・・まあ、いい。ひとそれぞれ考え方は違うからね」
なだめるように井上は言う。刺激してはいけない。
次の笑いが実に怖い。
「おや?」
井上は右を見た。
見慣れている中央区の風景が眼下にある。
だが、何かが足りない。
「君、ここは?」
「ここって墨田区を抜けたよ。江戸橋インターまでもう少し。内閣府まであと30分
もみりゃ着くだろうよ」
「とっ、東京タワーがないぞっ!!」
「何、なんて言ったの?」
「だっ・・・だから、港区の東京タワーが無いではないかっ!?」
「お客さん、あんたやはり疲れているよ。東京タワーなんてもの・・・ 東京には
ないよ。港区はあるがな? 何言ってんの、アホか、ぎゃあ、うりゃあ、ちょいな
ちょいな、と。なや?」
ニタリと歯茎を出し、舌を出し、運転手はチラチラと井上を振り返り今度は
「オホホホ」とおカマのように笑った。
―――嗚呼っ!! いったい、この豹変ぶりはどうだ・・・!?


狂った者は笑うがいい。幸い首都高を下りつつある。
10万円ほどくれてやり、狂ったタクシーから逃げよう。
それよりも何時もそこにあるはずのシンボル。
何度見回しても見つからない東京タワー。

―――こんな・・・馬鹿なことが・・・日本全体が狂ってしまったのか?


井上は恐怖で叫びそうになった。