箱舟が出る港 第二劇  五章 MMVウィルス

「こうして、君と同じ空気を吸っている。もっと近くに寄りたいものだが・・・
今は勘弁して下さい・・・」
「勘弁って・・・? 何を仰るのです、皆藤会長!!」
「正直な君・・・。君に最後の指示を送ります。明日、早暁に大洗へ釣りに行って
くれないか?」
「・・・最後の指示・・・釣りですと? 確かに私はご存知のように、頭に馬鹿が
つく程好きです。趣味としては。それは・・・仕事なのですね。釣りをする
事が・・・? また、最後とはどういう意味ですっ!!」
皆藤信一郎会長は87歳。
歳も歳だ。最近体調が優れないとの噂も聞いていた。見舞いに行こうと考えて
いた矢先の来社だった。
最後との意味は解る。が・・・仕事上で釣りの命令を受けた事は一度もない。
当たり前の話だ。
休日にふたりで釣りに出かけた事は何度もある。
そこででは仕事の話など一切しなかった。
共通の趣味としての行動である。
上司が部下に使う命令形の言葉も一切使わない、公私を実にわきまえている。


なぜ、どううしてと問いても、おそらく答えてくれはしまい。
真意は指示をこなした後聞く以外にないだろう。
電話を切って会長室に飛び込もうと思ったが、無駄なはずだ。
受話器の向こう側の声を続けて聞く以外にない。
「場所はね・・・大洗漁港から真っ直ぐにみえる岩礁帯だ。ホラ、磯場にしては
車も乗り入れられテントなども張れる人気のあの場所だよ。
君とあそこで黒鯛をよく狙ったよね。あの頃が懐かしい」



皆藤の目から涙が落ちている。
釣りではない。釣りをするふり、をすることに真意があった事を見抜く。
自然体でなくてはいけない姿をなぜ演出しなければならない?
それは何者かは知れないが、皆藤を監視している者がいるからであろう。
雨貝は会長の語尾の乱れからそれを知った。
「分かりました。で、その結果何を報告すればよいのです ? まさか釣果など
ではありますまい ?」
冗談めかして、天貝は笑った。皆藤の心が少し楽になった。
「・・・やはり了解してくれるというのかね。・・・ありがとう、ありがとうよ・・・
釣果ならなんと楽しい事だろうか・・・。私はね・・・常盤をここまで大きく
育てた事を後悔している。君と出会う事もなかったはずだからね。
大雄院・・・あの 日立の山の中で一生を終えたかった。金も名誉も要らなかった。
羽毛の布団は得たが、私には冷たいムシロが似合っている。
社員の為に懸命に働いたが、あの石ころの中身に逆らってしまったよ。
ああ・・・昔の話だ。君の知らない昔の事だ。老人のボケ事と聞き流して下さ
い。ところで、君の仕事は借り方、貸し方を見つめながら、最終的に利益を抽出
する仕事です。バランスシートの作成に一生を捧げた君。一点のかげりもない
左右正直な数値によって、会社の命が決まるといっても過言ではない。
経営を長きに渡って見つめる鍵が真実すぎるほど見事だった。常盤は経理
持っている会社といっても過言ではない。君の力なくしてここまで大きくする
ことは不可能だったと思う。熟した君に今更でもないが、能力は公認会計士
税理士などの資格では計れない。実直さだ。有無が能力です。
実はね、本来ならばね、君に次ぐ信頼している薬学の社員を派遣すべきだった
が、彼は理系で頭が実に実に固い。勉強のし過ぎかも知れないね。
現象をまともに見ようとせんのだよ。法則を建前に楽をしようとしている。
優秀だが幽霊を信じない輩なのだ。
君の経理の長年の経験で、地球と言う名のバランスシートの中で、海がどう
変化しているか、探って来て欲しいのだよ。恣意的な介入があるか否か・・・
介入あれば人類にとって利益か損失かをね」
石とは何か? 長年の付き合いであるが、初めて聞く会長の昔話である。
興味を感じたが、まずは指示の方が先だった。
「・・・織原事務次官の暫定ではあるが、天下り厚生労働省は何かを企んでいま
すね? 」
「・・・これはある財務官僚からの情報だがね・・・完成すれば、世界征服出来
るとかの代物だそうだ。新薬開発の鍵は海にあるというらしい。
最も夢物語に過ぎない話かも知れないが・・・そうであって欲しいと願うが
ね・・・」
「新薬を開発すべき根拠が、大洗にあるということですか・・・。すると新しい
病原体が存在すると・・・?」
「・・・そうです。情報が真実なら、大変やっかいなウィルスのようです。
肉体ではなく・・・精神に憑依するとかの・・・ウィルスらしい・・・。
君の炯眼はそこで何かを見るかもしれない。見たものを尋ねにしつこく官憲が
来るかもしれない。事件が起こる可能性が実に高いのです。
ここからが君の仕事です。
正直な君だから憂慮する場面に出くわしたら、全てを話してしまうだろう。
だが、嘘つきになって下さい。私に対しては今まで通り正直な人間でいて下さい
ということです」
「嘘をつけとは私の性格からして難しい・・・だが悪たる真実な現象なら、
嘘もつきましょう。見て見ぬ振りも致しましょう。真実は会長だけにお話すれば
よいのですね?」
常盤には警備課もある。気休めでも警備をつけると言わない。
警備などは役にたたないのであろう。皆藤らしい実直さだ。
「・・・そうです。君が一番信用がおけるからね・・・・・・研究所で一番の
正直者で、出世欲も金銭欲もない。部下の面倒見もいい雨貝・・・君は実に
いい男だ・・・命に危険が及ぶかも知れない仕事を押し付けたりしたくは
なかったが・・・君しか居ないのだよ・・・断腸たる思いです・・・」
「私は会社より会長を選びます。会長の為なら死んでもかまいません。ただこれ
だけは約束してやって下さい。仕事が終わったら、そのお顔を拝見させてくれま
せんか?」
「そのつもりです。死を掛けた仕事を君にお願いする。今は申し訳なくて顔を出す
事が出来ん弱虫な年寄りを笑ってくれ。これ以上己の弱さを君に見せたく
ないのだ・・・ここまで足を運んだ。恥知らずの死にたくも死ねない年寄りの誠意
と思って汲んで欲しい・・・」
「いいんです。むしろ光栄です。ここに来てくれただけで、この雨貝を選んで
くれてありがとうございました。で、見たものをご報告するには何時がいいで
すか?」
「任せます。が、私でなく常央大学の市島典孝学長に報告して欲しい。市島さん
から耳に入る事になっている。今私が介入する事は出来ないのです。間接的で
申し訳ないが、宜しくたのみます。万が一君の身に何かあったら、ご家族の一生
は常盤が引き受けます・・・すまんな・・・雨貝・・・歴史は・・・歴史はね、
・・・まだ私を死なせようとしてくれんのだよ・・・それというのもね・・・
あの石ころに逆らってしまったから・・・」
「石とかのおとぎ話をつまみに後で聞かせて下さい。酒はなんでもいいです」
雨貝は眉間の皺を軽く揉んだ。