箱舟が出る港 第二劇  五章 MMVウィルス

2006年5月10日。
水戸市千波町。
千波湖を見下ろす割烹屋の暖簾を山口猛は潜った。
―――うっ?・・・臭ぇ・・・なんだこりゃ?
甘い香りが鼻に進入する。
いつもは男の客が殆どの店にコロンの香りが漂ってる。
―――珍しい事だ。方針を変えたのかぃ?
割烹料理屋「男気」は原則として女を入れない店だった。


女はおしゃべりである。
政治、人事、談合など男同士秘密の話をするには持ってこいの店だった。
「いらっしゃい、久しぶりだね、山さん」
威勢のいい主人が山口を見て笑っている。
「お、居たか。経営者が変わったと思っちまったよ。妙に女性が多いね。
こだわりを捨てたのかいな?」
調理場から出てきた主人に耳打ちをした。
「殆ど一見の客だよ、東京弁だよ。この暑さだ。大洗あたりに海水浴に来た客
だろうな。どうしてもといわれりゃ断ることが出来なくてね。そのうち元に戻る
べよ。ま、今のうち稼いでおこうと女房と合意してね」
カウンターにひとりで座る女はどう見ても未成年だった。
―――こいつ、俺が警察と知りながら、俺が来るのを承知で入れやがって。
視界に入る座敷にもカウンターにも女が多い。
山口を認めると色っぽい目を恥じも忘れ曝け出した。
店内は満員である。半分が女性客だった。
―――まあ、今日は何も考えない事にしよう。勘弁してやる。



「ああ、お三方とも今しがた付いたばかりだよ。二階に上がってくれ。
しかし今日は珍しく笑顔だな。何かいい事があったの?」
「まあ、な。しかしお前さんも変わったね・・・」
山口は皮肉を込め、やれやれと靴を脱いだ。
「まだ五月なのにこの暑さだ。季節が気まぐれを呼んだと思っておくんない。
あっ、そうだ。ひとりは見た事がある。確か谷さんとか呼ばれていたな。何度
か来た事があるよ。谷さんとかは警察官ではないようだが、他は同職らしい
人たちが来ているよ。一緒かね、合流するの?」
―――実におしゃべりになったもんだな、こいつ?
訝る猛の背中へ主人が背後から小さく声をかけた。
「いや・・・予約通り四人だ。誰だろう? 県警の奴らかな?」
「違うね。多分所轄だろう。山さんと一緒の人たちじゃないよ。ああ・・・
昼間この辺りパトカーがうようよしていたっけ。何かあったの?」
「ああ?」
所轄は水戸中央警察署だ。県警本部に近い。
猛は気になった。
捜一に関する事件は起きていない。
交通課か・・・?
昼間徘徊する暴走族がここの所多い。
捜査一課では谷とかの捜査員はいない。
多分交通課の奴らだろうと思い直し階段を上がった。
場末のスナックのような下品なコロンの中で酒が飲めるか!
もう二度と来ない。
呟くと障子を開けた。




床の間を背にして草刈吉朗が座っていた。
「遠路、守谷からすいません」
草刈に頭を下げると空いている座布団に腰を下ろした。
「なに、ヒロっちゃんの復帰祝いだし、草刈不動産水戸支店に用もあった。
案ずるなよ」
老人は猛の顔を見て相好を崩した。
囲炉裏を中心に、右に筑波学園労働基準監督署の柳俊夫。
左にいる乞食のような汚い男は菊村貢であった。
「・・・ミツグ元気だったか? 今日はすまんな・・・」
珍しいモノを見るように、座りざまに菊村に声をかけた。
「・・・・・」
口にススキを銜え、闇の殺し屋、菊村は瞑想しているように見えた。
「仲間が居た。水戸監督署の谷というケチで嫌な奴だ。この店を予約した
のは間違いだったな、猛君よ?」
従兄弟の柳が嫌味を含み徳利を掴んだ。
「そうか、監督署の奴だったのか。偶然もあるよ。警察も来ているようだ。
部屋は離れているようなので、気にしないでくれよ、俊夫ちゃん」
猛は酒を受け、一気に飲み干した。
「ところで、変わった事を気づいたかな? ヒロ坊の復帰の祝いと復讐の
話の会合だが何かおかしな風が流れているね・・・?
水戸・・・ここに入って初めて気が付いた」
保守党県連の会長は豪胆でありながら繊細でもあった。
草刈はカツオの叩きをつまみながら、魚の形をした自在鉤を見つめた。
「何かを加速させるような風だろう・・・例えばもっと酔いたい。酒では
物足りない。では何が必要か? 風が吹いている。その風は海から来て女に
吹いている・・・酔いたいのはどうも女のようだ」
暖簾をくぐった時、射るような女客の視線を感じた。
柳が横目で猛を見ながら生ビールを注文した。
菊村は相変わらず一言も発しない。
「しかしだ。ヒロっちゃんが、棺桶の中からむくむくと出てきた時、さすがに
俺もたまげたよ」
話を本題に戻そうと草刈は新しく酒と料理を注文した。


菊村は未だ目を開けようとしなかった。








苫小牧の港に身を投げたらどんなに楽だったろう。
帰らなきゃいけないというのかい。
帰って欲しいというのかい。

片道24時間の長い道。
帰り道は大洗の港。
俺の故郷。


洋画があるようだ。
猿の惑星と言う名の映画だった。
大好きなSFだったけど、帰りのフェリーの中で、気晴らしににも満たないだろう。
忘れられないおまえ。
ポニーテール。


ひどく汚い部屋だったけど、海の話を忘れずに、いたのかい?


他人じゃない。
あんたの姪、甥を負ぶって、幌別川にいったね。


誰に、恋した?


海かい。

親に叱られても、喧嘩しても泣かなかった俺は。


カッコわるいけど、泣くことに、なるだろうよ・・・・