箱舟が出る港 第二劇  五章 MMVウィルス

2006年9月も終りの頃。

半熟の卵を食べかけた時、気象情報が流れた。
稚内でも今日は都心と変わらない暑さで、観測至上最高となるでしょう。
一方海外・・・コペンハーゲンでは・・・」
午前7時15分。
今年の気象は尋常ではない気がする。
水戸の気温は33度5分であった。
だがくそオヤジは暑さで働く気力がないのではない。
最愛の妻を亡くした、父。
無理もないと思った時期もあったけど、もう二年が過ぎた。


畳を焼く煙草の吸殻。ブリーフの間から見える汚いモノ。
飲んだくれのオヤジが、一升瓶を抱え、グーといびきをかいている。
泣けばいい。体の中の悲しみを全部吐き出して、男として新たに出航すれば
よいのだ。男泣きは恥ずかしくはない。
むしろ美しい。

愛やぬくもり、そして思い出をいつまでも引っ張るのは、女の役目だ。
「このなまけもの!!」
小糸真里はそう思う。弱虫とも。女の腐ったようなオヤジとも。


さっさと黄身をかきむと、薄くルージュを引き、殻になった一升瓶をアパート
のドアに置き、おにぎりをふたつ作り、パジャマから制服に着替えた。
「行ってくるぜくそオヤジ殿!」
泣けない親父に愛想をつかししつつある彼女は、ドアをドンと閉め、アパートの
階段を下りた。



財布の中を確認する。
大切にしまった二枚のチケット。
日本武道館、クリスタル☆ジェネーレードのコンサートのチケットだ。
クリジェネは女性のトリオボーカルからなる超人気ロックバンド。


【黄昏】
作詞作曲 立花ちえ美
編曲 ザ・クリスタル☆ジェネーレード 


〜少し遠くまで遊びに来てしまったのかも知れない
いつまでも寄り添いたいから
太陽に隠れないでよとわたしは引き止めた
貨物船が何かを運んで来ても今日の日は帰らない
お願い誰か時間を止めてよ
どんな出会いだっていつか別れの日があると
弱ったカモメが貴方の高い背の上を飛んでいるわ
ああ黄昏の向こうに何かが流れるよね
ヤッテクルノハナニカシラ?

わたしに見えないのが哀しい
貴方の目は何を見ているの?

サーフボードだけが色に浮かんでいる
一番星が見えて月と話しているわ
貴方の本音を聞かせてよねえ太陽を戻してよ
あなたの見つめる先を見ていた私


ああ誰か月を消してください

明日は来なくてもいい
いつまでも寄り添いたいから
太陽に行かないでとわたしは叫んでた〜


代表曲のひとつ「DUSK〜黄昏〜」は100万セールスを記録した。
―――でも私は「The port where an ark appears〜箱舟が出る港〜」
が好き。
甘き誘惑が漂うその曲。作詞作曲はチーコこと、三人の中で一番地味な顔立
ちの立花ちえ美だった。

箱舟が出る港。

―――女性なのにどうしてあんな歌が作れるの?箱舟が出る港、あれは・・・



真理はチーコが好きだった。
お話したい。あるいは抱かれても・・・いけない、いけない!あたしはレズじゃ
ない。
・・・ちえ美お姉さん、アタシを気にいってくれたなら、もし一緒に寝てくれる
なら、してくれるならキスまでは真理はいよ。


憧れのちえ美。

そういえば・・・?

バス通り。
常央大洗のエンジ色のスクールバスが止まり真理は財布をしまった。

そういえば。
ニコ下だが、時任小夜子って子がいたっけ。
ちえ美さんになんとなく似ている。 



「郡司、右腕をもっと引け。後方に平行に思い切り引いてみろ。球速は2.3キロ
アップするはずだ。お前の力なら150キロは出るはずだ!」
郡司大介は完成された投手だ。速球だけの投手ではない。フォーク、スライダー、
シュート、チェンジアップに加え、難しいナックルも投げる。
関東No1と称される逸材だった。


ブルペンで投げる二人のピッチャー。
太田垣は声をかけた郡司よりももうひとりの左腕にむしろ注目していた。
磯前晴海。
森内総監督の予言通り晴海はめきめきと頭角を現した。
入学時173センチだった身長が、今や190センチに届こうとしていた。
「甘粕、何キロ出ている?」
主将の甘粕大地は首を傾げながら、「133です、カントク・・・」
「やはりな。郡司、お前全力で投げているのか?肩でも壊したのか?」
ハア、ハアと大介の息が荒い。 
「ちょっと胸が痛くて・・・」