箱舟が出る港 第三劇 一章 やまぐも計画 

1997年早春。



あと二十分で出航する。
北海道、苫小牧港 23時40分。


苫小牧に停泊する大洗行きのフェリー”ばるな”は、客室の光をターミナルに投射
していた。
―――ヒューン・・・
乗船の時間が終わりつつある。
汽笛がひとつ、鳴った。
時間がない。
青い電話ボックスに走る男。携帯などまだあまり普及していない時代だった。


果たして相手は直ぐに出た。


―――ここまで来たのに、会えないというのかい?
―――会うと決心が崩れそうだから・・・
男は十円玉をひとつ入れた。



―――ひとつだけ、教えろ。俺を好きだったか?
―――とても好きだったよ、あの日までは、すごく好きだった・・・
―――俺が孤児だった。それが気に食わない?
―――違うよ、MITTUU、ミッツ・・・ミツグ・・・貢が嘘をついていた。それだけ
のことよ。
―――夜太郎さんは、血のつながりがなくても、俺の親だ。丘珠空港に来た親父
とオフクロ。それを認めないというのか?
―――ううん、とても認めている。拾われた過去があるなら、正直に話してくれれ
ばよかったのよ。
―――それだけじゃ、ねえだろ?
―――解っているなら、電話はやめてよ。私、港には行かないわ・・・これでも
我慢してる。綺麗に化粧もしたのよ。何度行こうと思ったかわからない。
・・・だけど、ダメよ、船には乗れないの。ポニーテールも今はずしたわ・・・
ミツグ?あなに貰った記念の時計。ミスジュンコは不思議にも止まったよ。
約束の時計。だからあたし・・・大洗には行けないのよ!


(跡継ぎのいない菊村家。どうか嫁に来てくれませんか?粗末には絶対しま
せん)

夜太郎さんの真摯な言葉だけど・・・ あたしだってひとり娘よ・・・ 


泣き出しそうなのか、怒りたいのか、声が震えている。


―――そうか・・・親(夜太郎)に揺らめいたのが、解っていたな?
―――そうよ・・・貢は私が一番と思っていた。親(夜太郎)を捨ててまで、
私を愛してくれたなら。
ひとり娘の私・・・貢の動揺・・・。親は私より大切。そう思ったわ、貢? 
ひとり娘の覚悟は、そんな、簡単じゃないのよ・・・
さよなら・・・今夜はあたし、抱かれたときを思い出し、泣くことになるよ。
朝まで?ううん、痛みは消えないかもしれないよ。好きだけどさよなら・・・
さよなら菊村貢。貢も泣いてね・・・これから素敵な人が現れても、あたし、
あたしは結婚などするもんか!!ミツグのばか・・・馬鹿!!


電話はそこで切れた。


結ばれるのはもう少しだった。
季節の変わり目、早春の港。
過去は一杯の幸せがあったのだが・・・


お前の真っ直ぐな性格。
親がいたお前。甘えることが出来たお前は幸せだったな。
やっと出来た親というべき者がすれ違った。
夜太郎夫婦は本当の子供のように俺たちを可愛がってくれた。
揺れないでどうする?人様のような幼少の思い出は俺にはねぇ。
横滑りしちまった性格さ・・・


女にはわからない義理人情の世界。男にはわからない女の気持ち。
オムツさえなかった俺と妹。
三歳まで絶滅したはずの日本狼に育てられた貢は、ここではじめて世間を知っ
たのだ。 


―――どうにも俺は幸せにはなれない運命らしいぜ・・・
泣きそうな顔と引き換えに、早春の港に結婚指輪を放り投げた。



風がなり、一枚の新聞紙が、貢に足元に絡んだ。
うるせえ・・・振り払う足。
降り出していた雨足が早くなる。
カブ飲みしてやる、この雨をみんな。
俺の涙など、少ないのだから。


紙面にはこうあった。
【政府やまぐも計画を認可 常央大学気象衛星の目的は? 高根沢科学技術庁
長官に野党から非難の嵐吹く】