箱舟が出る港 第三劇  二章 月世界の戦慄

くそ親父が・・・
新型ケータイは樺沢光記が買ってくれたもの。
しかし、しぶしぶ、だ。
中企業ではあるが、経営者ともなると、年収5000万以上にもなる。
なのにだ。
そのケチぶりは700名を擁する社員だけでなく、身内にも実にシビア
であった。
19歳にもなってようやく手にした電話器など捨ててくれる。
あんないい人を殺しかけやがって・・・血も涙もない。
実の父親といえつくづく愛想が尽きた。



「お前今どこにいる!?」
金切り声。 
流行らないチョングラメガネが怒りの汗か曇っている。
「どこだっていいだろう!!」
逆らったのは初めてであるせいか、辰巳は切れまくる。
「山口の事を怒っているのか?」 
「分かっているなら電話などすんな!!」
「山口は弱かっただけ、それだけだ。お前には関係ない大人の世界の
事だ。いいから早く帰れ!!」
「やかましい!!祖父が作った会社を苦労もせずに継いだあんたに何が
分かる!俺は伯父さん、あんたの兄に所へ行く・・・あんたも頭が上がら
ない社長のところへなこの馬鹿副社長が!!」



樺沢辰巳は利根川水系の小さな川に携帯を捨てた。
水もない干からびた川に親父をダブらせた。
幅はないが豊穣たる水を春まで湛えていた。 
あんなに釣れた小鮒たちはどこへ行ったというのだろう?
・・・みんなの汗を吸い上げたんだ・・・血もだ・・・体液という体液
をだ。天罰が下ればいい・・・



その天罰が下った。


樺沢取手工場が調整池の水により破壊された。
5階立ての管理棟は勿論、工場、コンプレッサー室、編電圧設備、小型から
大型までのプレス機、タンデムライン、プラズマ放電機、三次元測定器、
レべラフィーダー、手形の入った大金庫、帳簿 社有車、フォークリフト・・・
人以外の資産が全て消えてしまった。
あの巨大な揺れと同時に襲った鉄の塊のような隙無き大水。死人が出なかった
のが不思議なくらいの数分間の現象だった。
しかし恐ろしいのはその後だった。



敷地面積22000平方メートルが、全て水らしきもので覆われてしまった。
敷地は小さな湖に変わってしまった。
ドライアイスのような冷たい靄がかかり、邪魔をするかのようで、なぜか
その地には入れない。
社員たちがかつての場所に入ろうとするが、見えない壁が遮断して、どうして
もどう頑張ってもその湖、敷地に入れないのだ。
・・・なぜだ・・・いったいなぜだ!!
長谷部専務は呻いた。
戦慄的静寂の中ピシャ・・・ピシャ・・・という音がする。
例えば魚が泳ぐ音に似ている。
長谷部も工場長の斎藤も、目をこするが、うっすらと水面が動くまでしかつか
めない。
超科学的な力が働いている事は間違いない。 
「天罰だ・・・まさに・・・まさに・・・」
天を覆う太陽はまだ西に動かない。
「長い日になりそうですね・・・」
「黙ってろ斎藤!・・・もはや樺沢は終わりだ・・・どこへでも行くが
いい・・・」
魚が泳ぐような音に耳を大きくする長谷部だった。





ずぶ濡れの沼尻靖枝を始め女子社員は、とろけた瞳をしながらも、がくりと
ひざをつき嗚咽した。
あれは山口さんよ・・・
山口博さんの顔をした魚どもが寂しげに泳いでいるのよ・・・
甘き香りが【湖】から来ている。
それはMMVと呼ばれる死神の跫音であった・・・