筑波山戦争 二

分水嶺が限界だっぺよ!」と主張する真壁側。
「違うな、おめえらが勝手に木を伐り登ってきたんだこの野郎!」と筑波側。
そのどちら側にも妥結の線は見つからず、ついに真壁側が告訴する。
水戸地方裁判所では昭和34年に真壁側の主張が通り、落着したかに見えた。
ところが、この判定を不服として筑波側が高等裁判所に上告する。
筑波の人たちは昔の事であり、この争いを殆ど忘れているか知っている人も少ないが、中にはどちらに転んでも同じだ、と見る人もいたようだ。

山頂を獲得した側には固定資産税が入るが、失った側にも地方交付金が入ったからだ、という見方である。



当初は筑波町(現・つくば市筑波・沼田他地区)と真壁郡羽鳥村(現桜川市真壁地区)の争いであったが、大正7年関東鉄道の開通、さらには大正15年には、全国で五番目というケーブルカーが開通、観光地としてクローズアップされてくると、境界争いはにわかに深刻化した。
昭和2年ごろから、両者の話し合いによって進められていたが、妥結しては破れ、破れてはまた妥結という目まぐるしさで、結論を得られない状況が続いた。
その間昭和22年には固定資産税が地方税となり、山頂にある各施設の税金は、筑波町に納入されるようになり、羽鳥側が折れるかに見えた。そして旧筑波町は他の六ヶ所と合併(北条・田井など)羽鳥側村も真壁町に合併されると
境界争いが再燃することとなる。



〜続く〜