水戸右翼〜其の一

murasameqtaro2013-01-10




維新発祥の地、水戸



戦後しばらくして水戸と言えば右翼である、
と中央から水戸市に移動された社員などが、
最初に浮かべるのはこのイメージだったらしい。
よく茨城の人間は気が短く血の気多く、
いったんこうと思ったら、
すぐに行動に移ってしまうと言われて、いる。
桜田門外で国賊井伊直弼をたたき切った水戸浪士。
その後の水戸藩内での天狗派、諸生派に分裂、
仲間内での抗争もいい例だろう。



小沼正。
昭和七年二月血盟団事件が起こる。
首謀者のひとりの小沼は語る。
「五.一五事件や血盟団
水戸出身の憂国の士が大勢参加していたことは、
偶然ではない。水戸学発祥の地の背景伝統の地が続いてきた」
伝統の地とは尊王攘夷の基幹思想である水戸学発祥を指す。



大洗護国神社




ここに血盟団首謀者の井上日召が篭り、テロルを解く。
井上は群馬出身。
詳細は検索に委ねるが、
明治天皇と維新の志士の功績をたたえるために、
護国堂を建造、
主にふさわしい人物として井上を見込んだのが、
田中光顕伯爵であった。



小沼は続ける。
「日召先生の先祖には井上玄桐という
水戸藩藩医をしいてた人物がいた。
そのせいか日ごろから
明治維新の先駆けを作った水戸にあこがれてた。
先生の地元群馬ではその思想が聞き入れられず、
茨城で成功したことは、
大義のために死す、
という精神が脈々と水戸には流れていたからである



日召の大義のために腐敗した政財界人を撃つのはやむをえず、
との思想に共鳴した小沼らはまっすぐにテロ行為に走る。
大義のためとはいえ殺人を犯すこととなれば、
普通ためらいが出るはずだ。
しかし日召を師とする茨城の若者たちにためらいなどなかった。
          

この間に行動を遅らせる、という鎖のようなものはない。
「当時貧しかった那珂湊、大洗が半農半漁地帯だったこと。
これが事件の源泉ではないのか。
要するに農民の持っている頑固さと、気の荒い漁民。
那珂湊、大洗の人たちは伝統的に兼ねそなえており、
こうと思ったら最後まで初志を貫こうとする気質が強い、
事実大正七年、全国的な米騒動が起きたおりに、
茨城は大洗だけに発生している。
また県南、県西の穀倉地帯に比べて生活が貧しかっただけに、
ぼんやりとした不満が潜在的に拡大した。
貧しさの原因が政治にあると聞かされれば
炎のようにカッと燃え上がり、
行動は一段と激化せざろうえない
という面があったのではないか」
大学講師よりの引用だが、その通りであると思う。


〜其の二に続く 
http://d.hatena.ne.jp/murasameqtaro/20130111