箱舟が出る港 第二章 一節 波浪 四

何者かが彼女を狙っていた。
大きな黒いカウボーイハットと、黒いスーツで身を固めた男が、高月美兎を
ヒタヒタと追っていた。
夕暮れのせいも相まって顔がよく見えない。
うつむき加減で意識して隠すように、帽子を深く被っているようだった。
一方坊主頭の巨漢も美兎をつけていた。
知流 正吾であった。
勿論磯前晴海に宣言したように、自分の彼女にする為である。
普段はどこへ行くにしても、ジャージ姿が多い彼だが、珍しくブランドもの、
最先端の流行のファッションで身を飾っていた。
しかしお世辞にも全く似合わない。
女はやっちまうに限ると無頼の言葉を吐きはしたが、以外に繊細な心である
事を、おニューのジャケットが饒舌に語っていた。



校門から美兎をつけてきた正吾も、水戸駅での常軌を逸脱した彼女の半端
でない行動を見た。
―――思っていた以上、只者ではない!
やはり崩れているとは言っても流石に武道家である。
恋こがれる彼女への気持ちと同じように、美兎の技への興味に傾く流れが
正吾の頭を過ぎった。
一瞬のハリケーンを呼ぶ。
あれは武道か?
目を丸くし考える。
例えば「タイ道空手」なる武道が、この国には存在する。身と体の字を併せて
「タイ」と書く。
技の特徴は忍者の動きに、空手を合体させ、目まぐるしく早い動き。
縦横、地空と無尽である。
体操選手の如く空を飛ぶ、軽やかなバック転バック宙の、サーカスさながら
な動きが、型に取り入れられている。
たいてい相対した者は、その変化自在の動きに動揺する。
なかなか捕まえる事が出来ない。
攻めるも守るも相手にしたら、やっかいな技であった。
 

子供がホームから転落した。
ほぼ同時に美兎の体が線路にあり、間を置かず子供を抱え忍者のように跳躍
していた。
知流の動体視力が辛うじて確認出来たのはここまでであった。
向こうのホームまで20メートルほどあるはずた。
頭の中が阿呆のごとく真っ白になった。
知る限り、一番近い技はタイドウ空手である。 
20メートルもの距離を飛んだのかは解らないが、少なくともスーパーひたちを
飛び越えた事、これは間違いない。
ホームから高さ2.3メートルの高さであるひたち号を飛び越える事は、ある
いは可能かも知れないが、20メートルの距離とそれに相当する高さを跳躍したと
すれば、タイドウなどではあり得ない。
それどころか人間技などではないのだ。
―――俺だったら電車に体当たりしかなかったな‥・
知流は両手をベルトに挟んで、その風景を振り返っていた。
いい服が台無しの無頼の格好だ。



友部駅で美兎は降りた。水戸駅から土浦方面への電車に乗り、ふたつめの駅で
ある。
カウボーイハットも降りた。
―――なんだあいつは。ストーカーか?
美兎の後ろ10メートルほど後を、ピッタリと歩いている男を正吾は観た。
正吾は男の後方これも10メートルの距離にいた。
スニーカーやパンプス、ビジネスシューズの音が多いが、ヒタヒタと異常な
響きを後にしていた。
犯罪めいた訝しいカウボーイハットの足音である。
街はすでに夕闇に包まれていた。小さな町なので灯りが乏しい。
街角のスーパーには「十五夜フェア」の旗が翻っていた。




夕暮れの日本武道館は満員であった。
巨大な火の玉のように、会場は熱狂のピークを迎えていた。
ロックバンド、クリスタル★ジェネレート。
MIKA、 SUZUME 、 チーコの三人の女性ボーカルと、バックに四人の男性を
従えた七人編成の超人気ロックバンドである。


静かなシンセサイザーのリズムの後に、ドラムが高らかに鳴って、大ヒット曲
「黄昏」が始まった。
ボーカルの三人は酔っていた。
何に?
ピンクのイルミネーションが渦をまく。
いつものように大観衆の熱気がミサイルのように直撃し、砕け散るような
陶酔感か?
違う‥・アルコールでもない、海外へ行った時悪戯で吸ったマリファナでも
ない。強いて言えば媚薬を飲んだかの如く。
体に火山の音も憑依する。
SUZUMEはかつてエクスタシーなるその手の媚薬を使った事がある。
似ていたが、質が違うと思った。
例えるなら生理前の不安定な陶酔の汗を蒸発させ、それにある種の強力な
媚薬とテキーラのような強いアルコールを調合し、無理やり飲ませられたかの
ような、恣意的な陶酔であった。


生理は終わったばかり、どうしたのか自分でも分らない。
意に相違して、体だけが股間だけが、勝手に灼熱の如く燃えている。
駄目だよと、脳が必死で叫ぶ。
そのような命令をしていない、と大きく手を広げるが。
三人だけでは無かった。観衆の半分は女性。彼女達も同じ淫靡なエモーションを
大いに感じていたのだ。
‥・ああやりたいね‥
リードを取るMIKAがそう歌った。
え?‥何だって?男性の観衆が驚いた。
―――違うぜMIKA・‥ああ流れるね‥だ。
黄昏の歌詞には「やりたいね」など存在しない。加えこの曲は静かなR&Bの
はずだった。それが激しいロックになっている、バックが慌てている。
熱心な男どものファンは耳を疑った。
おいおい、ジョークかよ?との声が大きい。
違う。
なんと観衆の女どもも「やりたいね!!」と大きく同調の大合唱の叫喚をあげた
のだ。
混乱したバックは、ギターをシンセをドラムをベースを一斉に止めた。
MIKAは「やろうよ!」と歌詞を変えて歌い続けた。
「やろう」
「やろう、やろう、やっちまおう」SUZUMEとチーコが続けた。
観衆の女どもも同じように続けた。
MIKAはするすると全裸になっていた。SUZUMEもチーコも間を置かず合図の
ように下着を脱いだ。
それを観た女どもが先を争うように服を脱ぎ始めた。



「何だあれはっ!! 狂っている、辞めさせろっ!!」
モニターで会場を見ていた武道館副館長が警備員に指示した。
三十名程の警備員がステージへと走った。しかし超満員の館内ではステージへ
辿り着く事は困難であった。
副館長が呻く。
「だめだっ、警察を呼べ!!」
すでに三割ほどの男女が館内で交わっていた。勿論ボーカルの三人も様々な
体位でステージで交わっていた。
―――クビものだ‥しかし‥どうして?



70歳になる老いた体が小刻みに震えていた。