箱舟が出る港 第二章 一節 波浪 三

アメリカ合衆国大統領、ケント.アンダーソンは、執務室でその電話をとった。
直前に、日本の高根沢雄一朗総理大臣と電話会談していた。
今度も同様に、着信にはNoritaka Ichizimaが表示されていた。
テレビ電話である。
アンダーソンも高根沢も元は医者であった。
市島は常央大学の学長であり、付属病院の院長でもあり、脳外科の世界的権威
であった。
高根沢と市島は東大医学部の同級生。アンダーソン大統領は若き頃、東大
医学部に留学していた事がある。その頃からの長い付き合いで、親友であった。
「ハロー、ノリタカ、詳細はユウイチロウから聞いたよ‥」
流暢な日本語であった。
めったに表情を変えない、冷静なアンダーソンであったが、その声も狼狽して
いる。
市島は電話越しにアンダーソンの砂のような相貌を見つめながら言った。
室内の光りの加減に関係ない、たよりない青ざめた輪郭であった。
長年の友だけが知る心の滑りである。
 


「とうとう来たようだ、ケント、高根沢が話した通りだ。奴らは太平洋にヤツラ
の遺伝子を蒔いた」
「そのようだね、遣られてもしかたがない、戦争の繰り返しばかりだからな、
この惑星は。至急やまぐも計画の稼動準備に入ろう」
ふふ、とアンダーソンが悲しそうに笑った。
「もう一方はやまぐもか何とか対処するとしても・‥邪悪なヤツラだぞ、
ケント。繰り返すまでも無いがボイジャーを破壊し、通告を送って来たやつらだぞ。
科学力は中々な物だ」
「すでに善悪同士の戦いの兆候がある。例えるなら天使と悪魔の戦いだ。
ミリオンダラーから連絡があった。天使を支援しても、人の悪の思念で
生を受けたらしい蝿座の悪魔は、人間の心が変らない以上、旗色が悪くなるかも
知れんよ」
「どうする?」
「今更世界中のヒトを仏門に入れる訳にもいかんよ。60年前からの予測通りに
なった今、隠しておいても仕方あるまい。あいつは確かヤマシタとかいったな? 
彼の意見をまず真摯に謙虚に聞いたらどうだ。我々が信じていた科学は崩壊した
にも等しいからね」
「・・・山下君か。最初から全面的な協力を仰ぐべきだったのかも知れないと
言うのか?あまりにも突飛過ぎる理論の持ち主だ。確かに今思えば先カンブリア
紀に何かあった事は、認めざるを得ないがね」
「君が以前話したように危険思想の持ち主では今はないよ。政治をする男では
ない。あの分野だけでは稀有な発想を頭脳を持った学者に思う。今や思想などは
どうでもよい、ドンキホーテにもまぐれがあるかも知れないさ」
「まぐれに賭けるしか、ないと‥・?」
エス‥・アンダーソンはゆっくりと頷いた。
「‥・他に誰がいると言うのだね。我が国にはあんな突飛な発想を唱える
研究者はおらん。また在野に転がっている石から、救世主が出ないとも限らん。
邪悪なヤツラだけは軍事的に対応する。観測衛星やまぐもを至急月に向よう。
巡行日立と最終の詰めにかかるがいい。軍事に切り替えるのだ。改修の終わ
ったランドサットも同様にしよう。支援駆逐宇宙船も至急打ち上げる。
ミリオンダラーももうすぐ戦闘準備にかかる。ユウイチロウもOKした」
「これは全地球的な問題だぞ、ケント!ロシアはどうする、中国はどうする!?」
「直ぐ異変に気づくさ、連絡するまでもない、ましてや時間などあるかね?
国連などで討議しても、どうにもならない、とにかくだ、魚はいい。
まずは至急邪悪なヤツラを叩く事だ。勝てるとは到底思えんが。
仮に渡すとしても、それは天使に決まっている」
「国民への情報操作はどうする。恐らく大変な犠牲が伴うぞ。すでに民間の筑波
の研究所が疑問を持ちはじめたぞ‥」
「‥・大混乱になるだろう。殆どの男は放っておいても死ぬ。特効薬のない今、
ほんの一部を除いて半年ほど隠そう。半年がリミットだね。全力で研究しねば
ならん。それ以後は公開せねばなるまいよ。‥・人類の最後の晩餐の為にだ」
「‥・ところでアメリカでは?」
「ロスで15人、サンフランシスコで33人・・・今日だ」
「時間がないな‥・」
「ない!‥ところで例のフラスコはどうした?」
「あれから見えたのは宇宙の果てだ‥君と同じ見解だよ、ケント。
あるいは救世の鍵かも知れん。か細い期待をしようではないか。時間はないが、
なんらかの意味があるはずさ」
「やはり我々はもっと大きな者、例えば上位存在、神、の体の中の一部なのか
も知れない。そして人類はもはや‥癌細胞なのかも知れないな、ええ、
ノリタカ?」
「強制摘出か‥・我々も手術される側になったね?」
二人とも机を拳で叩くと、もう何も言わなかった。




「証拠だと?・・・何を寝ぼけているんだお前?」
健一は呆れた顔で晴海を見つめた。
「父さん、身長は何センチ?」
「178だったかな‥・それがどうした。証拠とやらか、おい?」
「僕は191センチ、そしておじいちゃんが169センチ‥」
―――ふーっ
健一はため息を漏らした。コップを手にし、妻に向けた。
智美は噴出したビールを畳から拭くと、トクトクとコップに注いだ。心なしか
表情が朱に染まっている。
「つまりこう言いたいのか、親子なのにこの身長の差は何だ、と。遺伝を言って
いるんだな、お前? 話を摺り換えるな。俺は月の裏側に行ったとかの非科学的な
話し事を言っているのだ。そんな身長の例などいくらでもある、関係ない事を言
うな、馬鹿者」
「ちょっと待ってよ、僕だけじゃないんだ、この変化は」
「なに? 誰がどうしたと言うんだ、馬鹿馬鹿しい!」
「海水を飲んでいる人、全部さ。それに‥・それに・・・」
晴海は意を決したように上半身裸になった。
「父さん‥ここを見てくれ」
左の肩を指した。
「世界最強のサウスポーと皆が言っている、左腕さ‥・」
健一は晴海に近づき、その肩に手を置いた。
「‥・なんだお前、魚でも採りに行ってたのか? ここに小さい鱗がふたつ
ついている‥・あれ?」
健一はそれを獲ろうとした。
しかしどうにも獲れなかったのだ。
付着していたのでは無い、皮膚の裏側から突出しているのだ。
―――これは?
刹那健一はととと、と晴海から離れるとテーブルに、腰をぶつけた。
畳を智美がまた拭くはめになった。智美の顔はより、朱に染まっている。
拭き終わると健一の手をとった。
「病院に行きなさい、晴海。あんた水泳が好きだから、岩で傷でもついて、
フジツボのようにそこから入り、固まってしまったのよ。もういいじゃない?
おじいちゃんも大丈夫のようだし。野球もいいけど、晴海ももう勉強しなさいな」
それ以上何も言えないものを晴海は感じた。
今は何を行っても信じてもらえないだろう。ふたりの子とは言え、晴海は知らない
ふりを決める時間が来たのを知った。
健一は妻の手が濡れているのを感じた。多分股間もそのはずだと淫靡の瞬間を
悟った。
―――どうした事だ、これは?
その気が無いはずだが、自分の股間も勃起している事を不思議に思った。





三人のサラリーマンが居酒屋にいた。
「つぅ、暑いなぁ、まったく、いったいどうしちまったと言うんだ?」
年長者が残った生ビールを一気に飲み干した。
クウ‥と唸ったその肩を軽くたたかれた。
「大丈夫すか、課長?」
「君こそ大丈夫ではないのではないか、もう五杯目も終わりだぞ、しかも大だっ」
「そりゃそうですが、ちっとも酔わんのです、あまつさえションベンも出やし
ない・・・」
「何っ? そうか、そうだな。今日の君は強い? ならば酔ったふりして聞こう。
もしかして精子も困った事になっているのじゃないかね?」
少し小さく声を落としそう聞くと、課長は疲れた顔ではあるが、
馬鹿笑いをした。
実際五杯目の生大を体に流しているにも関わらず、二人ともトイレには
一度も行っていない。



二人ともそういう体質では無かった。いくら熱くても初めての事であった。
「そうです、そうです。よくご存知で。女房がここの所しつこくてね、
ありゃ異常だ、淫乱だ。搾り取られてますよ毎日ね、まるで飢えた狼の
乳搾りだ。このままでは精子の枯渇ですよ。いや体がもたんすね、課長」
「そりゃ羨ましい限りです。僕なんか彼女もいませんよ」
こちらは反対に三度目のションベンである。ホント羨ましい、
と続けた新卒者が、トイレから帰って来た。
「ああん? 君はもう帰りたまえ、これからは既婚者同士で、飲む。環境ISOの
審査が近いと言ったろ。その準備でもしたまえ」
課長が据わった眼で睨んだ。
「そうとも、俺は家に帰りたくないんだ。今日やりたくない‥・女日照りの
独身は帰れ!しっしっ!!」
情けない顔で、犬を追い払うように手を払った。
「仲間はずれにしないで下さいよ、課長、主任。僕だってちっとも酔ってない
のです。もう一軒つき合わせて下さいよ。花金のまだ九時半ではありませんか?」 
―――まだ、九時半だと?
なに、と課長は腕時計に目をやった。



あの鬼ババァの事だ、いつもなら決まってこう電話をかけてくる。
鍵は掛けて寝るから、お好きなだけお飲みなさいな、などと言って来る憎たら
しい時間だ。
それが、ここ二週間ほど無い。ざまあみろと思ったのはほんの束の間であった。
代わりに地獄が始まった、セックスの地獄である。毎日だ。絞り殺されるような
寒気がする毎日であった。
射精はあるが不思議に萎えない自分にも疑問を持つ。
おそらくは ビールを飲んでも小便として体外に排出させようとしない体と、
大きな因果関係があるに違いない。
エネルギーを放出させない為だ。
なぜだ? 性交の為だ。
来年は45歳になる。妻は年上の48だ。
本能なのか‥と、ふと思った。
本能を顕著に剥き出す時代は遠い昔のはずだった。
毎日交じっても満足出来ない時代があった。ところが急にここに来て、
その時代よりも遥かに凌駕する勢いで、更年期近しの妻が異常な性欲を剥き
出し始めた。
異常な速さで、種を残そうとする本能がそうさせいてるのか?
しかしそれは本来男の本能であるはずだ。逆でなければならないのだ。
こっちからは決して求めてはいない、地獄さながらの中であっても快感と
とともに、何かに魅入られたように射精をしてしまう。  
鬼ババの憎らしい嫌味が懐かしい。
振り返ると主任と目が合った。どうやら同じ事を考えていたようだ。
「生ダイ三つね、大至急!」
―――クソッ。
新米は大きな声で喚いた。
なら僕に奥さんを貸して下さい‥・と冗談のつもりで言いかけたが辞めにした。
半殺しにされそうな充血が、ふたりの眼に、鬼門と宿っている。
七杯目になる。二人はまだトイレには行っていない。




観測衛星やまぐもは日本上空から、月へ軌道を向けつつあった。
無人の観測衛星である事が一般には知られている。
しかし実態はそうでは無かった。
7名のクルーを擁する最新鋭の軍事衛星であり、世界初の攻撃型宇宙船だった。
やまぐも計画の予算は世界アカデミック連合、地球環境保護事業連合極東支部
世界医学協会と民間を唱っていた。これも名目であった。
予算はアメリカ合衆国と常央大を経営する那珂川学園、民間の機械メーカー巡行
日立から出ていた。



船長は唯根 鉄雄、42才。元、航空自衛隊の情報将校である。
軍人出身には珍しく、比丘たる雰囲気を体全体から醸し出していた。
副船長にマーク.A.マーシャル、NASAの現役研究員、38才。
スペースシャトルの航海士として8年の経験があった。
NASAに入る以前はステルス戦闘機に乗り、湾岸戦争を経験している。
技術者にポール.フォスター、アメリカ航空産業界のエキスパート、39才。
重力制御の技術の完成を目前にしている優秀なエンジニアである。
そしてロボット、ウルフ16000及び指令コンピューター心【ハート1号】。
ウルフは文字通り狼型の超合金で出来た戦闘ロボットである。
核電池の寿命が一年、破壊さえされなければ相当な時間、戦闘が可能だ。
心はやまぐもの事実上の司令官である。
さらには三メートルはあるだろう大きな生物も格納庫に居た。
熊だ。
遺伝子組み換えで生まれた戦闘グリズリーが二匹眠っていた。
三名、一体、一機、二匹が正確なる呼称であろうか、
いかなる形態を持っていようが、それぞれの任務があった。地球の名の下に、
もはや区切りなどはない。
ロボットウルフ16000にしろ、灰色熊にしろ、与えられた任務は地球の為だけ
に確実に追行出来るように、設計訓練されていた。
それを監視指揮するのが、やまぐもの頭脳であるコンピューター、
【心】である。
人間はとりあえずは、戦闘を見守るだけだった。



アメリカの科学技術、バイオ工学は、公表されているより、少なくとも30年は
確かに進んでいたね」
唯根がまずい宇宙食を口に入れ、二人に話しかけた。
「最後の世界大戦が始まったら、投入しようと考えていたらしい、それが宇宙戦争
と生存競争になりつつある。ま、二つとも同義語ではあるが、ね。ところで日本
だって負けていないじゃないか?【心】の創造が無かったら、この計画はオジャン
だった。いまさらながら同盟国で良かったと本気で思うよ。俺にとっちゃあのお
ぞましい異星の蝿の化け物より日本人の頭脳が怖いさ」
ポールが地球を見つめながら呟いた。
「なんと青い、美しい、そして豊穣の水だろう。我々は確かに愚かだった
のだ‥・」
アマゾンの青が茶に日々変っている。資源の乱獲である。 



ポールの背後からマークが後悔の表情を浮かべ首を二、三度横に振った。
「悔いてもしかたないですよ、ミスターマーシャル」
金属製の声が聞こえた。【心】であった。
「あと一時間丁度で目的地の軌道に乗ります、誤差は0.12秒‥・今の所
敵の動きはありません、そうそう、人類の最初の月への一歩。記念の星条旗
粉々になっていました、悲しい事です、同胞の皆さん」
心の金属性の声に感情はなかった。


出来るなら、人間のような自由を与えてあげたいと、三名は顔を見合わせた。