箱舟が出る港 第三章 一節 カタストロフィの日傘 二

着地したところは、小さな公園であった。
商店街の外れ、向こう側には家もない田園地帯が広がる。
誰も居ない公園は夕闇に包まれて、弱くなった蛍光灯が
寂しく点いては消え、集まった蛾や虫達が、驚いたように飛び去り、
夕闇に消えて行く。
悪意に気づいた刹那、より遠方へ遠方へとテレポートを試みたが、
時間が足りなかった。
...人目を避たいな...
眼下を探したが、一秒程度の時間の中では、
思念を緊密に集める事に限界があり、より遠くへ移動する事は
困難であった。
友部駅から北へ五キロ、殺気を感じた短い時間の中、ここまでが
高月美兎の限界であった。


あたりの様子を伺った。
おぼろげに浮かび上がった、ベンチに座った。
草花や樹木の陰に身を隠し、様子を伺おうと思ったが、
【そいつ】ならば場所を透過するのはいとも簡単であろう。
泣いていた蛙の声がぴたりと止んだ。
公園の入り口に黒い影が立っていた。
果たしてそいつはやって来たのだ。
恐ろしい力を持った【奴ら】には下手な細工など通用しない。
真正面からぶつかるつもりだった。
美兎は拝むように手の平を合わせ、頭上の満月に目を据えた。
....大いなる月の海よ、我がしもべたる鯱族よ、ここに満潮の
エネルギーを降霜させなさい....
風が渦を巻き恰も鏃のようにするすると天空に登ると、氷結の
雫のような冷たい光が星降るように降下した。
たよりない蛍光灯から飛び去った虫達が、光りを求めようと群がった。
ジュ......虫達は光りに触れるとドライアイスが溶けるように、白い靄を残し、
一瞬のうちに消滅した。
美兎の周りを球体が囲んでいた、結界.....絶対零度のバリアーであった。


黒い影がもう美兎の前に来ていた。
白い帽子が月に照らされて、顔に影を落とし、表情を隠していた。

....ググ...グ...グ...タカツキミク...サガシタゾ...コドモヲタスケタノガ...グ...シッパイダッタナ....
ニンゲンナドニジョウヲカケルトハオロカナヤツダ....

....人間を滅ぼすわけには、いかない、進化してもらうのよ。
どこから来たか分からない善の無い邪悪なお前たちには、
この惑星は渡さないわ....

ゼン?ダト....ソンナモノハマヤカシニスギヌ...ワレワレハホンノウノオモムクママニイキル...
テヲクムツモリハナイノダナ....

....月と同じよ、月からもいずれ消えてもらうわ....

....シカタナイナ、ツキノジョオウヨ....オレタチモ、ソンボウガカカッテイル...グ...ク゚ェツ...

木々が揺れた。
黒いものが次々と塊になって落ちてきた。
超音波の会話が毒々しくコウモリを落下させたのである。
男の首が下を向いた。
どす黒い液体を、どろどろ、と地面に吐いた。

それは...血であった。
よく見ると血の中に、人間の指や目玉、髪の毛、腸のようなものが
ぬめりと光り浮かんでいた。
....食べたのね?...

....アア、...【ガンジスガワ】デナ、ビョウニンヤ...ロウジンノニクタイハウマクナイ....ツギハ
イキテイルニンゲンヲクウツモリダ...ソノツギハ....ト...オモッテイタガ....

....私と言う事ね....


....アア、デハカクゴシロ....ニンゲンノマエニオマエヲクウ...ココデミツカッタノガオマエタチノウンノツキダ、
ツキノプリンセスヨ....


知流正吾にとっては愁眉之急の事態であった。
おい、と前を行く帽子の男に声をかけた一瞬、美兎は空を飛んだ。
あの時と同じだ....水戸駅で使った技?...と同じだ。
見えたのは飛んだ瞬間だけだった。
....技などでは、ない....ありゃあ、何だ...?
あっけにとられる表情に憔慮が浮かんでいる。
と、突然男が上着を脱いだ。
こら、てめぇ! と男を捕まえようとした。
しかし、正吾の体が凍りついた。


羽が生えている....
二枚の透明な羽が背中から突き出し、ブンブンと唸りを上げている。
まるで発射前の巡航ミサイルのように、羽が準備をしている。
元々豪放な暴れん坊である正吾である。
凍った体は直ぐに溶け、火の玉のような反動がやって来た。
「おもしれ野郎だな、ええ? おめえよ!!」
大吾が突進した。
掴みかかろうとしたが、男は宙に浮いた。
「野郎っ!!」
ベルトを外し、思い切りジャンプした。
外したベルトを、男の足に叩き付けた。
くるくるとナックルが回り足を捕らえた。
ベルトを渾身の力で引くと、男の腹に拳を叩き込む、いい角度で入った
はずだ。

グ...グェ...ツググ...グエツツツ

正吾の頭の中にそんな声が聞こえた。
苦しんでいる事は間違いない。

....キン キン キン キン キン キン....

...くっ、なんだこの音は?....
耳を塞がずに居られなかった。
痛烈な頭痛が襲来したのだ。
...しまったっ!
正吾は思わずベルトから手を離してしまった。
間を置かず、鋭い打撃を背中に受けた。
まるでムチの集合体で叩かれたような鋭利な痛みだ。
羽に自らの肉片がこびリ憑いているのを見た。
男は高く舞っている。
足にはベルトがまだ絡み付いている。
....高月を狙ってやがる...追ってやる。ぶち殺してくれる!!
背中が派クリと抉られ、赤い肉を出しているにも関わらず、
言葉にならない咆哮を上げ、巨体がベルトを追っていた。